八尾
やお
国 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
自治体八尾市
旧自治体八尾町
面積5.38km²
世帯数25,971世帯
総人口57,134人( ⇒住民基本台帳人口及び外国人登録人口、2011年12月31日現在)
人口密度10,619.7人/km²
八尾市役所八尾本庁
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度37分36.71秒 東経135度36分3.52秒 / 北緯34.6268639度 東経135.6009778度 / 34.6268639; 135.6009778
現在の本町地区を中心としたかつての「八尾寺内町」とその周辺の村落、荘園「八尾庄」があった地域の総称であり、のち、中河内郡八尾村→八尾町だった地域のこと。 河内国若江郡の南に位置し、寺内村(のち八尾町)のほかに「長八尾八か村」と呼ばれた 西郷村、東郷村、木戸村、庄之内村、成法寺村、今井村、別宮村、八尾座村の各村があった地域が狭義の八尾とよばれる。江戸時代初期までは八か村はひとつの村であったが、1628年(寛永5年)に8つに分村された。 八尾は、古くは「矢尾」「矢生」「箭尾」とも書かれた。また8つの尾羽を持ったウグイスがいたことから「八尾」と呼ばれるようになったとも伝えられている。 この地域は物部氏の一族である「粟栖連」や「矢作部」(矢作連)の本拠地であり、一族の租神を祀る粟栖神社(現在の八尾神社)や矢作神社が建てられ、延喜式神名帳にも記載されている。奈良時代の頃に行基によって常光寺(八尾地蔵)が創建されたと伝わっている。 平安時代には有力寺社の荘園となり、「八尾庄」と総称される。現在でも「荘内」などといった地名として名残をとどめている。また、矢作神社周辺はかつて「別宮」と呼ばれ、石清水八幡宮の別宮・荘園であった。 室町時代に入ると、古大和川(現在の長瀬川)左岸にある西証寺(のち顕証寺)を中心とした渋川郡久宝寺村がこの地域の中心となる。八尾はまだ寒村であった。 戦国時代になると、この地域に「八尾城」が築城され、たびたび戦乱に巻き込まれている。しかしその跡地がどこであったかは八尾神社近くにあった説と八尾座にあった説があるものの定まっていない。少し北の萱振村では恵光寺を中心として環濠集落が形成され、織田信長ら当時の権力者に対抗するも攻略されている。 八尾地域の発展の転機となるのが、江戸時代初め頃の浄土真宗の宗派争いを発端とし、森本行誓ら久宝寺の一部住人が寺内町を支配していた安井氏と対立して、1606年(慶長11年)に慈願寺と共に長瀬川右岸へ移住したことである。まだ荒地の多かったこの地を開墾、新たに大信寺(八尾御坊)を建立し、周囲に寺内町を形成していった。その後、大坂の役では周辺地域が戦場となるものの、徳川方の保護により戦乱には巻き込まれなかった。1704年(宝永元年)に大和川の付け替えが行われ、周囲の新田で綿栽培が行われるようになった。その結果、八尾は綿花や河内木綿などの取引で潤い、八尾が久宝寺に代わって経済の中心となり、現在の八尾市発展の基礎となった。 やおちょう (日本 > (河内県→堺県→)大阪府 > (若江郡→)中河内郡 > (八尾村→)八尾町) 八尾市旧村境界概略地図 注:表示環境により文字の位置がずれることがあります。 位置的には、八尾寺内町と八か村だった地域は、大まかには西は長瀬川の北東、近鉄大阪線より南、府道174号線(青山通り)より西に囲まれた地域にあたる。旧村落は市役所の周辺一帯(旧大字八尾、大信寺、西郷、木戸)、南本町交差点から安中診療所へ至る一方通行の市道(八尾街道 かつての八尾庄(寺内町・大信寺・八か村)の周囲にあたる地域で、これらの村域であるものの、地図上に境界線が引けないほど境界が複雑に入り組んだり飛び地が多い「八か村交錯地」であり、かつてはほとんど民家もなかったが現在はほとんどが住宅地に変貌している。現住所表記では、大まかには 本町の一部、南本町の一部、栄町、高町、光南町、清水町、陽光園の一部、明美町の一部、松山町、荘内町、青山町、若草町、高美町、山本町南の大半、南小阪合町の一部、北本町、光町、山城町、楠根町、緑ケ丘、旭ケ丘、桜ケ丘の各地区にあたる。 八尾庄であった地域の周囲には後の市町村制実施時に合併した村(新住所表記改名前の大字)であった地域があり、現住所表記では大まかには 萱振町、小畑町、長池町(萱振環濠集落・寺内町)、宮町(旧・穴太)、佐堂町、美園町、久宝園、末広町の一部(旧・佐堂)、西山本町、堤町(旧・八尾中野)、山本町、山本町北、山本町南の大半、山本高安町(旧・山本新田)、山本町南の一部、小阪合町、南小阪合町の一部(旧・小阪合)の各地域にあたる。 河川
歴史・沿革
近代以前
近代以降
八尾町
廃止日1948年4月1日
廃止理由新設合併
八尾町、龍華町、久宝寺村、大正村、西郡村 → 八尾市
現在の自治体八尾市
廃止時点のデータ
国 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
郡中河内郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
総人口23,317人
(臨時国勢調査、1947年)
隣接自治体布施市
中河内郡龍華町、久宝寺村、西郡村、三野郷村
八尾町役場
所在地大阪府中河内郡八尾町大字八尾
座標北緯34度37分36.8秒 東経135度36分03.4秒 / 北緯34.626889度 東経135.600944度 / 34.626889; 135.600944 (八尾町)
特記事項町域は現在の山本地区も含む。
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1868年(明治元年) 若江郡西郷村のうち、常光寺領内が八尾村となる。
1869年(明治2年)1月 河内県が設置され、若江郡寺内村の大信寺境内に河内県庁が置かれた。しかしすぐに堺県に統合されて廃止となり、跡地は堺県出張所、八尾郡役所として利用された。現在、河内県庁跡として史跡に指定されている。
1875年(明治8年) 若江郡八尾村を西郷村に編入。
1887年(明治20年) 若江郡寺内村を八尾町に改称。
1889年(明治22年)4月1日 町村制施行に伴い、若江郡八尾町、大信寺新田、西郷村、東郷村、木戸村、庄之内村、成法寺村、今井村、別宮村、八尾座村のほか、周囲にある佐堂村、穴太村、萱振村、小阪合村、八尾中野村、山本新田が合併し、若江郡八尾村(町村制)となる。大字八尾に村役場を設置。
1896年(明治29年)4月1日 郡の統廃合により、中河内郡八尾村となる。
1903年(明治36年)8月1日 町制施行。中河内郡八尾町となる。
1910年(明治43年) 大字大信寺新田、山本新田を大信寺、山本に改称。
1924年(大正15年)10月31日 大阪電気軌道が開通し、大字西郷(現在の本町七丁目)の北はずれに八尾停留所が開設された。
1948年(昭和23年)4月1日 八尾町・龍華町・久宝寺村・大正村・西郡村の2町3村が合併、市制を施行し八尾市となり、中河内郡を離脱。
地理
萱振佐堂穴太中野山本小阪合八か村交錯地大信寺―→寺内町↑123456781:西郷2:木戸3:東郷4:庄之内5:成法寺6:今井7:別宮8:八尾座
地図で示されている地域のうち、カラーで塗られている部分が旧中河内郡八尾町の地域。各々の地区名は市町村制施行以前の旧村名を示す。
広域・交通