八名郡
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愛知県八名郡の位置(薄黄:後に他郡に編入された区域)

八名郡(やなぐん)は、愛知県三河国)にあった
郡域

1878年明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。

豊橋市の一部(豊川以東かつ朝倉川以北)

豊川市の一部(豊津町・橋尾町・三上町・院之子町)

新城市の一部(豊川・宇連川以南かつ名号・七郷一色以南)

当該区域の面積は220.81km2、61,250人(平成22年国勢調査)[1]
歴史

7世紀後半の木簡が出土しないことから、大宝律令成立以後の8世紀に成立したと思われる。豊橋市域だと、石巻(山、神社)、多米(トンネル)など。

郡の名前は古代の部民(べのたみ)である八名部が多く住んだことから名付けられたという説や、が多く設けられたことから命名されたという説がある。

戦国時代、郡南部(現在の豊橋市西郷校区辺り)に2代征夷大将軍徳川秀忠生母西郷局(名は愛)を出した三河西郷氏(三河国守護代の西郷家の同族と言う)が本拠を置いていた。具体的には、月ヶ谷(わちがや)城(同市嵩山(すせ)町)を大永年間、五本松城(同市石巻中山町、西郷校区)を西郷正勝1561年永禄4年)に築城、天文年間に西郷清員西川城(同市石巻西川町、西郷校区。後、三河吉田藩小笠原長矩の弟小笠原長秋が2000石を受けここに陣屋を置いたという)を築城したとされる。近世以降、八名郡は「やなぐん」と呼ばれた。明治維新直前岡部藩安部信発(安部氏、あんべ)が武蔵国岡部埼玉県深谷市)から陣屋を半原村(現・新城市)に移して、半原藩が発足したが、すぐ版籍奉還を迎えた。

明治初期、広域から生徒を集めた八名高等小学校(富岡村)により、教育のメッカになったが、すぐ衰退し、第一次産業以外のさしたる産業のない地域になった。その中で郡の北部の大野町(現・新城市大野)は、秋葉街道の宿場町から発展した経済の中心として栄え、八名郡で唯一町制を敷いた。大野町に置かれた大野銀行は1945年昭和20年)東海銀行(現・三菱UFJ銀行)に合併されるまで、八名郡はもとより東三河全域の経済を支配する銀行として君臨した。

戦前には、1926年大正15年)4月、下川村に愛知県立豊橋第二中学校(現・愛知県立豊橋東高等学校。現在は豊橋市向山町(旧渥美郡)に移転。ナンバースクール)が置かれた(現・豊橋市牛川町字洗嶋)。これは、豊橋市と誘致を争った八名郡大野町に配慮して八名郡内に設置されたと考慮される。この旧制中学校の豊橋二中の跡地は新制中学校の豊橋市立青陵中学校になっている。

しかしながら、大正の郡制廃止後、八名郡役所の置かれた八名村は警察署以外の官公庁を失い、太平洋戦争直前の下川村、石巻村多米地区の豊橋市への合併や八名郡を管轄する八楽地方事務所の南設楽郡新城町への設置で、郡全体はいよいよ零細郡の色彩を強くし、南北設楽郡と併せて八楽(はちらく)地方と総称されることが多くなった。

戦後は、経済を支配していた大野銀行や八名郡全体を管轄した富岡警察署を合併で失い、町村合併促進法施行以後、豊橋市や豊川右岸の自治体との新設・編入合併が相次ぎ、1956年昭和31年)9月30日山吉田村南設楽郡鳳来町へ編入を最後に、八名郡の名前は住居表示から消えることになった。

現在は、新城市南部の中学校名および小学校名に八名の名を止める[2]のみだが、小学校名は新城市市制施行後の命名である。また、総称の八楽も地元タクシー会社やパン会社の社名にとどめるのみである。
近世以降の沿革

旧高旧領取調帳』に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地[3]が存在。(74村)

知行村数村名
幕府領中泉代官所14村乗本村、細川村、黄柳村、●一色村、六郎貝津村、●下平村、●大野村、多利野村、●巣山村、●名号村、名越村、●井代村、●能登瀬村、●吉川村
旗本領4村養父村、庭野村、●下吉田村、鳥原村
藩領三河吉田藩46村中島村、●西川村、日下部村、一鍬田村、●平野村、中野田新田、●萩平村、中山村、橋尾村、井之島村、入文村、成沢村、●馬越村、竹之輪村、白石新田、五井村、暮川村、犬之子村、天王村、八反ヶ谷村、藤ヶ池村、堀之内村、竹之内村、●金田村、●高井村、神ヶ谷村、●和田村、森岡新田、●長楽村、●嵩山村、●月ヶ谷村、●長彦村、●牛川村、浪之上村、●若宮村、小鷹野新田、野川新田、忠興新田、田中新田、中沢新田、●多米村、●赤岩村、●神郷村、三渡野村、ままノ上村[4]、古川新田
武蔵岡部藩7村●○賀茂村、●八名井村、●黒田村、●半原村、●下宇利村、●○中宇利村、●御薗村
吉田藩・岡部藩1村小畑村
幕府領・藩領中泉代官所・岡部藩1村塩沢村
旗本領・吉田藩1村上吉田村


慶応4年

4月3日1868年5月5日) - 岡部藩が藩庁を移転して三河半原藩となる。

4月29日(1868年5月21日) - 幕府領・旗本領が三河裁判所の管轄となる。

6月9日(1868年7月28日) - 三河裁判所の管轄区域が三河県の管轄となる。


明治2年

6月24日1869年8月1日) - 三河県の管轄区域が伊那県の管轄となる。

8月7日(1869年9月12日

伊那県の管轄区域の一部(塩沢村を除く旧幕府領)が駿河静岡藩領となる。

任知藩事により吉田藩が改称して豊橋藩となる。



明治4年

7月14日1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が豊橋県半原県静岡県の管轄となる。

11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により全域が額田県の管轄となる。


明治5年11月27日1872年12月27日) - 愛知県の管轄となる。

明治8年(1875年)(71村)

六郎貝津村・下平村が合併して睦平村となる。

半原村・下宇利村が合併して富岡村となる。

森岡新田が神ヶ谷村に合併。


明治11年(1878年12月20日 - 郡区町村編制法の愛知県での施行により、行政区画としての八名郡が発足。郡役所が富岡村に設置。同年、以下の各村の統合が行われる。(41村)


黄柳野村 ← 黄柳村、多利野村

金沢村 ← 養父村、御薗村

日吉村 ← 鳥原村、塩沢村

豊津村 ← 中島村、日下部村、橋尾村、井之島村

小野田村 ← 入文村、成沢村


東下条村 ← 白石新田、藤ヶ池村、堀之内村、竹之内村

三輪村 ← 金田村、神郷村

玉川村 ← 高井村、神ヶ谷村、和田村、長楽村

西下条村 ← 五井村、暮川村、天王村、八反ヶ谷村

三上村 ← 三渡野村、ままノ上村[4]、古川新田


中野田新田が平野村に、月ヶ谷村・長彦村が嵩山村に、浪之上村・若宮村・小鷹野新田・野川新田・忠興新田・田中新田・中沢新田が牛川村に、赤岩村が多米村にそれぞれ合併。


明治15年(1882年) - 豊津村の一部が分立して橋尾村となる。


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