八名信夫
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やな のぶお
八名 信夫
本名八名 信夫
生年月日 (1935-08-19)
1935年8月19日(88歳)
出生地 日本岡山県岡山市
身長182 cm
ジャンル俳優タレント
活動期間1956年 -
活動内容映画テレビドラマ舞台制作、講演
配偶者独身(結婚歴有)
事務所株式会社ハワード
公式サイトプロフィール
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八名 信夫基本情報
国籍 日本
出身地岡山県岡山市
生年月日 (1935-08-19) 1935年8月19日(88歳)
身長
体重182 cm
68 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1956年
初出場1956年3月21日
最終出場1958年8月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


岡山県立岡山東商業高等学校

明治大学(中退)

東映フライヤーズ (1956 - 1958)

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八名 信夫(やな のぶお、1935年昭和10年〉8月19日 - )は、日本俳優、元プロ野球選手タレント血液型B型。悪役商会所属。本名は同じ。岡山県岡山市出身。
来歴
プロ野球選手時代まで

父の亀億(ひさお)は国鉄(現・JR西日本岡山駅助役であったが、終戦後に退職し、芝居小屋兼業の映画館を経営していた[1]

9歳の時に岡山大空襲に遭遇し[2]、父の命で母・姉とともに後楽園に向かった[1]。しかし猛火と黒煙が立ち込める中で方向感覚を失い、逃げ惑う人波に巻き込まれて家族ともはぐれてしまった[3]。朝になり、雨が降る田んぼの中で倒れていたところを地元の消防団員に助け出された[3]。幸い一家は全員無事で芳田村米倉(現・岡山市南区)の親類宅や父親の部下宅に身を寄せた[3]ものの、小学校の同級生を何人も失ったり、広島市への原子爆弾投下により同市在住の軍医の叔父が被爆死するなど悲惨な経験を味わった。

その後疎開先の平島(現・岡山市東区)で終戦後に連合国軍の兵士がキャッチボールに興じる姿を見たことがきっかけで、野球を始める[1]。父はテニス選手だったためスポーツには理解があり、逆に劇場主として役者と接して生活を知っていたことから、役者への道には反対したという[1]。のちに八名がプロ野球入りしたときに父は東映フライヤーズが岡山でキャンプを張る援助もした。

出身小学校の岡山市立出石小学校は都市空洞化によるドーナツ化現象で児童数が減少し、2002年3月に廃校となった。閉校式には八名による講演会が行われた。

岡山東商に進学。一塁手であったが、1年下の横溝桂とともに投の二本柱としても活躍する。在学中に甲子園には出場できなかったが、1953年春の中国大会県予選では決勝に進み先発。横溝との継投で関西高吉岡史郎に投げ勝ち優勝、本大会に進んでいる。高校の2学年先輩に、のちに大洋ホエールズで活躍する秋山登土井淳がおり、明治大学に進学していた。その縁から修学旅行のとき、神宮球場で明治大学の試合を観戦して進学先に決める[1]。大学では投手として将来を期待されていたが、先輩部員からの「しごき」に耐えられずに2年次に中退[注 1]

1956年プロ野球東映フライヤーズ投手として入団。1年目から一軍に上がり9試合に登板、うち2試合に先発し0勝1敗を記録。その後も一軍で起用されるが、3年目の1958年8月10日日生球場での近鉄パールス戦の試合中に骨折して[注 2]入院し、選手生命を断たれて現役を引退した[1]。現役引退後も東映フライヤーズ、北海道日本ハムファイターズOBで組織する『フライヤーズ・ファイターズOB会』のメンバーの一員でもある。
俳優への転身

野球選手引退後、親会社の東映専属の映画俳優となる。俳優転向の理由は、東映本社社長であり、東映フライヤーズオーナーでもあった大川博から、「長嶋茂雄王貞治に打たれるより、高倉健に撃たれろ!」と言われたことがきっかけであったという[1][注 3]。初めて出演者として名前の出た映画は『遊星王子』。ただし宇宙のギャングという設定で、顔の部分が覆われた衣装だった上、同じ衣装の出演者が複数いたため、映画を見ても自分がどこに出ていたかわからなかったという[4]。駆け出しのころ、宿舎の「八名様」と書かれた自室を開けたら、布団が8組置いてあったという(「やな」を「はちめい」と読み違えられた)。俳優転向当初は二枚目役として活躍し、主演作もあった。大部屋俳優よりもさらに下という境遇からのスタートであったが、「体が大きいから小さい奴が撃たれるより迫力があるはず」と売り込んだことがきっかけとなり、悪役として定着するようになった[1]。八名が出演する映画の撮影を見学しに土橋正幸張本勲東映京都撮影所を訪れた際、当時の撮影所長だった岡田茂(後の東映社長・会長)から「あいつ(八名)は岡山弁が抜けなくてなあ」というボヤキを聞かされたことを張本が2021年に週刊ベースボールベースボール・マガジン社)に連載している自身のコラムにて回想している[5]

ギャング悪党を専門に演じる俳優集団悪役商会を1983年に結成し、リーダー(会長)となる。刑事ドラマでのヤクザ暴力団組長・凶悪犯、時代劇での用心棒・悪徳役人・妖術使いなど多くの悪役を演じた。1985年にはアニメ映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争』のギルモア将軍役で声優に初挑戦している。バラエティ番組には『今夜は最高!』(日本テレビ)ではじめて出演し、その後『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)のコーナー「ひょうきんベストテン」にも出演した。

1990年代、バラエティ番組において「1050回ぐらい殺されたかな」と、悪役を演じて殺された回数の多さを述懐したことがある[注 4]


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