八卦
八卦(はっけ、はっか)は、古代中国から伝わる易における8つの概念のことである。すなわち、一般的な周易では
?(乾)
?(兌)
?(離)
?(震)
?(巽)
?(坎)
?(艮)
?(坤)
の八つの卦のことである。以下は、一般的な周易の八卦について主に記し、末尾に香港で使われる連山易・帰蔵易の八卦について記す。
卦は爻と呼ばれる記号を3つ組み合わた三爻によりできたものである。爻には?陽(剛)と?陰(柔)の2種類があり、組み合わせにより八卦ができる。なお八爻の順位は下から上で、下爻・中爻・上爻の順である。また八卦を2つずつ組み合わせることにより六十四卦が作られる。
卦象後天図。上が坎(北)になった物
八卦は伏羲が天地自然に象って作ったという伝説があり、卦の形はさまざまな事物事象を表しているとされる。『易経』繋辞上伝には以下のように八卦の成立について述べられている。
「易に太極あり、是れ両儀を生ず。両儀、四象を生じ、四象、八卦を生ず。八卦、吉凶を定む」[1]この文章の解釈は後述のように様々であるが、もっとも素直なのは朱子学に基づく諸橋轍次のように「宇宙の根源である太極から両儀すなわち陰陽が生じ、陰陽が大陽・小陰、大陰・小陽の四象を生じ、四象の組み合わせを八卦という」という解釈である。[2]この朱子学の説に基づいて八卦の図を書くのが通常である。下表のように方位などに当てて運勢や方位の吉凶を占うことが多い。
八卦二進法卦名音読み訓読み自然性情家族身体動物先天八卦方位後天八卦方位五行 と 五星伏羲八卦次序文王八卦次序 なお朱子学系統の易学における八卦の順序には「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を「伏羲八卦次序(先天八卦)」、後者を「文王八卦次序(後天八卦)」という。 伏羲八卦次序(先天八卦)は前述の繋辞上伝にある「太極-両儀-四象-八卦」の宇宙の万物生成過程に基づいており、陰陽未分の太極から陰陽両儀が生まれ、陰と陽それぞれから新しい陰陽が生じることによって四象となり、四象それぞれからまた新しい陰陽が生じることによって八卦となることを、?・?・?・?・?・?・?・?の順で表している。下記の図はその様子を描いたものであり、陽爻は白で、陰爻は黒で表されている。次序の通りに「乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八」と呼ばれる事が多い。 朱熹『周易本義』 一方、文王八卦次序(後天八卦)は卦の象徴の意味にもとづいており、父母(乾? 坤?)が陰陽二気を交合して長男長女(震? 巽?)・中男中女(坎? 離?)・少男少女(艮? 兌?)を生むという順を表す。ここで子は下爻が長子、中爻が次子、上爻が末子を表し、陽爻が男、陰爻が女を象徴している。この順番の通りに「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」と呼ばれるが、実際に使われる値の「一坎, 二坤, 三震, 四巽, (五合太極,) 六乾, 七兌, 八艮, 九離」も併せて呼ばれる。 占筮では筮竹を算数的に操作していった結果、「卦」と呼ばれる6本の棒(爻)からできた記号を選ぶ。易経では全部で六十四卦が設けられているが、これは三爻ずつの記号が上下に重ねられてできていると考えられた。この三爻で構成される記号が全部で8種類あり、これを「八卦」と称している。いわばおみくじを選ぶための道具であるが、易伝ではこの八卦がさまざまなものを象っていると考え、特に説卦伝において八卦がそれぞれ何の象形であるかを一々列挙している。漢代の易学(漢易)ではさらに五行思想と結合して解釈されるようになり、五行を属性としてもつ五時・五方・五常…といったものが八卦に配当され、さらには六十干支を卦と結びつけて占う納甲が行われたりもした。また1年12ヶ月を卦と結びつけた十二消息卦など天文[要曖昧さ回避]・楽律・暦学におよぶ卦気
?111乾ケンいぬい天健父首馬南北西金|海王星11
?110兌ダ-沢悦少女口羊南東西金|金星28
?101離リ-火麗中女目雉東南火|火星36
?100震シン-雷動長男足龍北東東木|木星43
?011巽ソンたつみ風入長女股鶏南西南東木|冥王星54
?010坎カン-水陥中男耳豚西北水|水星65
?001艮ゴンうしとら山止少男手犬北西北東土|天王星77
?000坤コンひつじさる地順母腹牛北南西土|土星82
先天図。配列自体に呪力があるとされ、呪符などで使われる配列
後天図。占いなどで使われる配列
九数図。占いなどで後天図と組み合わせて使われる
八卦と家族
次序
伏羲八卦次序図より12345678
八卦乾兌離震巽坎艮坤
四象太陽少陰少陽太陰
両儀陽陰
太極
八卦の歴史八卦爻と太極
先天図
(伏羲先天八卦)?
兌?
乾?
巽
?
離宋?
坎
?
震?
坤?
艮
後天図
(文王後天八卦)?
巽?
離?
坤
?
震周?
兌
?
艮?
坎?
乾
朱熹は八卦の手本となったという伝説上の河図洛書を陰陽を表す黒白点による十数図・九数図と規定するとともに、周敦頤の太極図、邵雍の先天諸図を取り入れ、図書先天の学にもとづく体系的な世界観を構築した。
清代になると実証主義を重んじる考証学が興起し、神秘的な図や数にもとづいた朱子学の易(宋易・象数易)は否定され、漢代易学の復元が試みられた。陽明学の流れをくむ黄宗羲は『易学象数論』において朱子学に反対し、朱子学者の易の八卦の図が根拠のない創作であること、そもそも論として先天諸図は繋辞上伝を誤って解釈していると述べた。黄は「太極-両儀-四象-八卦」を1爻ずつを2進法的に積み重ねたものと解釈し「太極(1)→両儀(2)→四象(4)→八卦(8)→16→32→六十四卦(64)」とし、「陰陽2爻を2画組み合わせたものを四象とする朱子学の説は、易経に記載がない」と批判した。黄は「四象」は三画八卦を、「八卦」は六十四卦を表していると解釈している。これをうけて胡渭は『易図明辨』において朱子学者が主張する易の図像は道教に由来することを著し、八卦図を批判した。
香港風水で用いる連山易・帰蔵易(先天易)の八卦風水の八卦鏡に使用された先天八卦図 (昔の中国では、南を上にしたためこの地図は南が上になっている)
以上は日本や中国大陸などで使われているいわゆる周易(後天易)の八卦について述べたが、香港風水で用いる連山易・帰蔵易(先天易)では八卦の配置が異なる。易は先天易と後天易に大別され、連山易・帰蔵易・周易の三易は連山易・帰蔵易は先天易、周易は後天易である。連山易は夏王朝の易、帰蔵易は殷王朝の易とされる。[3]
連山易・帰蔵易については魏晋南北朝時代の偽作ではないかと言われていたが、1993年に王家台秦墓から帰蔵易が発見されたため偽作説はくつがえった。