八八艦隊
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八八艦隊(はちはちかんたい)は、日本海軍の建艦計画。艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力とし、所要の補助艦艇並びに第一線を退いた艦齢8年超の主力艦群を主軸として整備するものだった。ワシントン海軍軍縮条約の締結で中止となった。時期・規模の符合からアメリカ海軍ダニエルズ・プランとしばしば比較される。
概要

日露戦争において六六艦隊計画諸艦を中核とした帝国海軍は、戦史に名高い日本海海戦の完勝をはじめとする一連の戦いによりロシア海軍を壊滅させ、世界第3位の海軍国に躍進した。

他方、ロシア太平洋艦隊の消滅によって対峙すべき主敵を失ったことから、折から対立が深まりつつあったアメリカ海軍を新たな仮想敵として定め、対抗戦力の整備目標を検討することになる。その中で生まれたのが本項の八八艦隊であり、1907年(明治40年)、帝国国防方針における「国防所要兵力」の初年度決定において、戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻として計画された。

その実現は帝国海軍の新たな悲願となったが、日露戦争直後から趨勢は弩級戦艦に移行し、主力艦の建造コストは膨大にのぼり、計画は日本の国力では手に余り兼ねない規模となり、即時の実現は不可能とみられたことから段階的に推進されることとなる。

シーメンス事件等の曲折を経ながらも計画は推進され、特に第一次世界大戦大戦景気による経済成長を背景に予算確保に一定の目処がついたことから大正5・6年度の八四艦隊案・大正7年度の八六艦隊案を経て、大正9年度の八八艦隊案により構想全艦の予算が議会を通過した[1]

しかしながら当時の日本の歳出規模15億円に対し、この艦隊が完成した場合の年間維持費は6億円と予想され、それを維持することは不可能であったといわれている[2]。また、八八艦隊案成立時点で帝国海軍はさらなる拡充策として「八八八艦隊」構想をも抱いており、もはや計画実現と国家破産を天秤にかけるほどの財政負担が重くのしかかりつつあった。

この状況は同様に建艦計画を推進していた列強諸国においても同様であり、各国とも財政上の問題から建艦競争にどこかで歯止めをかける必要性を感じるところであった。第一次世界大戦終結後の軍縮ムードは良い契機となり、最終的にはワシントン海軍軍縮条約(1921年)にて主力艦建造が抑制されることとなり、計画は消滅することとなった。これにより圧迫されていた日本の財政は解決した。
同時期の他国の建艦計画

アメリカ - ダニエルズ・プラン

計画完遂の暁には、アメリカ海軍は戦艦52隻(内、巡洋戦艦6隻)、装甲巡洋艦10隻、巡洋艦31隻、駆逐艦108隻、潜水艦175隻他を1921年までに保有することとなる。

同プランによる戦艦10隻、巡洋戦艦6隻の主力艦合計16隻は八八艦隊と同数であり、両艦隊完成の暁に対決したならばという想定もなされ、計画年度上も計画規模上もよく比較される。なおダニエルズ・プランの次の計画もほぼ同規模で構想されている。

イギリス - 対独二倍構想

従来より「二国標準主義」を掲げ、世界第2位のフランス海軍と第3位のロシア海軍を合したものと同等規模以上の海軍を整備する基本方針を掲げていた王立海軍であるが、三国協商などで仏露との外交関係が改善に向かったことと、新興ドイツ海軍の急速な成長を受け、ドイツ海軍に2倍する艦隊規模を維持する方針に転換した。折から弩級戦艦時代に突入し、従来の前弩級戦艦が一挙に陳腐化して建艦競争がリスタートされたという認識の下、ドイツ高海艦隊に倍する弩級艦・超弩級艦の整備にあたり両国の間で勃発した建艦競争は激化の一途を辿り、1年で8隻もの戦艦を建造した年度さえあったほどで、最終的には第一次世界大戦の遠因の一つにも数えられている。

大戦後は日米の勢力伸張に対応する必要が認められ、まず戦艦4隻・巡洋戦艦4隻が計画されたが、大戦により疲弊した国力で建艦競争を続けることへの懸念は軍縮会議開催の機運醸成に繋がった。

ドイツ - 艦隊法

皇帝ヴィルヘルム2世ティルピッツ海相の下でドイツ海軍は、1897年議会上程翌年成立の艦隊法により、長期的な海軍力整備に着手した。当初の計画では戦艦19隻(8隻1隊で2個戦隊+総旗艦1隻+予備2隻)を艦齢25年にて保有するという比較的穏当なものであったが、1900年の第二次艦隊法は明確にイギリスへの対抗を宣し、リスク理論に基づく戦略抑止力醸成のため、艦隊規模を戦艦38隻(4個戦隊+旗艦2隻+予備4隻)に倍増するものとなった。

1908年の第二次艦隊法第二次改訂では定数は変更ないものの戦艦の艦齢を20年に短縮し、戦力急速整備のため1908?1911年にかけての4年にわたり、毎年4隻の戦艦・巡洋戦艦を起工することが定められた。

1912年の第二次艦隊法第三次改訂では第五戦艦戦隊の新設により、戦艦定数を41隻(5個戦隊+総旗艦1隻)にまで増強した。これらの他巡洋戦艦20隻、巡洋艦40隻などを整備した結果、ドイツ高海艦隊(1907年、常備艦隊より改名)は急速な成長を遂げ、第一次世界大戦勃発直前にはイギリス海軍の6割に匹敵する世界第二位の大艦隊を整備していた。

なお艦隊法においては巡洋戦艦は大巡洋艦と規定され、建造は年1隻に抑制されていた。同時に複数の巡洋戦艦を建造できるようになるのは、大戦勃発で戦時体制に移行して後のことである。

フランス - 装甲艦28隻整備構想

英独建艦競争追随の必要性から、1900年に装甲艦28隻整備構想が打ち出された。その後の弩級艦時代到来も踏まえ、1912年には20年までに戦艦28隻、巡洋艦10隻、水雷艇52隻、潜水艦94隻他を建造することとした。

ロシア

日露戦争において海軍力の大半を消失し、大海軍国の地位から転落したロシア帝国であったが、弩級艦時代到来は再整備の良い機運となる。

1908年よりスタートした再整備計画では、1918年まで隔年毎に4隻の戦艦を起工する構想であり、最終的にバルチック・太平洋・黒海の3艦隊それぞれに戦艦8隻、巡洋戦艦4隻の主力艦合計36隻の整備を旨とした。
構想
主力艦

冒頭に示した通り、基本構想は「艦齢8年未満(0?7年)の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻」を主力とするものである。これは、8年ごとに新型戦艦を建造することを意味する。

日本海軍は主軸となる戦艦と前衛・遊撃隊となる巡洋戦艦(装甲巡洋艦)を相互連携させることで艦隊決戦を有利に進める基本思想を持っており、八八艦隊もその想定に基づくものである。8隻という数字の根拠には諸説あるが、一つには「艦隊運用時に指揮統制可能な限界が8隻」というものがある。

なお艦齢8年未満の艦を第一線に、ということは、裏返せば8年を超えた艦も第二線級として保有し続けるということであり、当時想定されていた主力艦運用年数は24年であることから、帝国海軍は最終的に48隻の主力艦を整備・運用し、毎年2隻の新造艦を起工し続けることとなる。これが八八八艦隊となれば毎年3隻、総数72隻の戦艦・巡洋戦艦となり、当時の日本の国力限界を遙かに超えるものであったことは想像に難くない。
諸元

八八艦隊主力艦の性能としては、下記のような数字が一般に知られていた[3][4]。しかしこれらの諸元は後述する平賀アーカイブの公開により大きく修正を迫られ、そのまま受け取ることはできなくなっていることに留意されたい。

艦型建造・計画隻数排水量速力主砲舷側装甲厚さ傾斜角甲板装甲厚さ
長門型233,800t26.5ノット41cm砲8門305mm垂直75mm
加賀型239,979t26.5ノット41cm砲10門279mm傾斜15度102mm
天城型441,200t30.0ノット41cm砲10門254mm傾斜12度94mm
紀伊型442,600t29.75ノット41cm砲10門292mm傾斜12度118mm
八号艦型447,500t30.0ノット46cm砲8門330mm傾斜15度127mm

天城」型と「紀伊」型の要目に大幅な差がないが[5]、先行建造予定の天城型の実績を加味し、紀伊型はより強力な主砲・装甲に改設計される予定もあった。天城型にくらべて砲塔天蓋、中央水平甲板の防御力を増し、重量増加を舷側装甲の一部減少と速力低下で対応している[6]。「軍艦尾張製造の件」には、「天城型と同艦建造の利点を失うことなく加賀型と同等の防御力を施し得たる」の表現が見られる[7]

最終八号艦型については海軍関係者および福井静夫造船官による予想であり、設計として決定したものではなかった。このため「天城」型12隻建造によるコスト低減が行われたであろうとの考察[8]や、46cm 砲搭載艦として建造される可能性はなかったとする説[9]は従来から存在した。他方、平賀譲造船官は1921年(大正10年)に出した意見書の中で、八八艦隊の最後4隻は18インチ砲搭載と述べており[10]、少なくとも46cm砲が選択肢に入っていたことはうかがえた。牧野は、当初12門を目標とし、連装6基、三連装4基、四連装2基・連装2基が検討され、平賀の推奨により5万トン以内におさめるべく18インチ砲8門、16インチ防御の案が決定したという[11]。しかし、海軍内部でのそのような計画資料は発見されていない。ただし、1920年3月27日付けの資料で、41センチ50口径砲と46センチ50口径(45口径ではない)の砲力比較資料は存在し、砲塔の構造図[注 1] や砲弾の構造[注 2] 図も発見されている[12]。また同時期の「主力艦ノ主砲ニ関スル件」においても「近い将来の主力艦には46センチ砲10門以上の砲数が必要」とあるが、同時に「新補充計画による主力艦に対しては、排水量・工作力などの点で46センチ砲は困難のため、41センチ砲で満足し」とも書かれている[13]
平賀譲デジタルアーカイブによる考証

2008年4月1日、海軍造船官の平賀譲が携わった技術資料がアーカイブ化され、公開された。一連の公開資料に基づく考証が進捗した結果、旧来流布していた八八艦隊のイメージは大きく転換を迫られるものとなっている。

判明した事実を幾つか例示すると、下記の通りである。

天城型の煙突は当初の直立2本から結合型に変更された
設計図書の修正が確認され判明した。機関出力増大による煤煙の悪影響は深刻さを増しており、対応が求められるところとなっていたが、その回答が結合煙突であったことが確認された。なお史実においては長門型で屈曲煙突にて解決している。


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