八代城
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この項目では、江戸時代熊本藩家老加藤正方によって築かれた後の肥後細川家の家老松井氏の居城について説明しています。キリシタン大名小西行長の居城については「麦島城」を、名和氏および相良氏の城塞群については「古麓城」をご覧ください。

logo八代城
熊本県
八代宮入口付近の本丸跡の石垣。
この石垣の上には舞台脇櫓があった。
別名松江城、白鷺城(しらさぎじょう)、白石城[2]、不夜城、不知火城[3]
城郭構造輪郭式平城
天守構造連結式(非現存)
築城主加藤正方
築城年元和8年(1622年)竣工
主な城主松井氏
廃城年明治3年(1870年
遺構本丸跡(天守台、石垣、堀)、北の丸跡、城壕、城壁、本丸大書院、庭園(松浜軒およびその正門)
指定文化財国の史跡[4]
松浜軒庭園(国の名勝)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度30分26.84秒 東経130度35分59.61秒 / 北緯32.5074556度 東経130.5998917度 / 32.5074556; 130.5998917座標: 北緯32度30分26.84秒 東経130度35分59.61秒 / 北緯32.5074556度 東経130.5998917度 / 32.5074556; 130.5998917
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八代城(やつしろじょう)は、熊本県八代市(旧 肥後国八代郡)にあった日本の城江戸時代初期に球磨川河口の松江[5]に幕府の許可を得て建築されたことから松江城(現八代城趾)とも言う。

同じく八代城とも呼ばれた南北朝時代古麓城安土桃山時代麦島城の三つの城跡を併せて、平成26年(2014年)に「八代城跡群(やつしろしろあとぐん)」との名称で一括して国の史跡に指定された[4][6]

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(190番)に選定された。
前史

八代地方には中世以後大小多数の城塞が築かれたが、松江城以前に存在した古麓城と麦島城も八代城と呼ばれてきた。これらは同時期には存在しておらず、三つの城はそれぞれ築城地の具体的な地名を名前の由来にしており、松江にあった城を松江城、古麓にあった城を古麓城、麦島にあった城を麦島城と呼んでいる。
古麓城詳細は「古麓城」を参照

古麓城(ふるふもとじょう)は、八代市古麓町の東側の山岳にあった南北朝時代から戦国時代にかけて築かれた城塞群で、南朝方の重要拠点であった。八代には一時、征西府、高田御所(こうだごしょ)[7]が置かれ、その名残りとして懐良親王御墓がある。中世で八代城といえばこの古麓城をさした。城塞は7つの山城であり、名和氏が築いた五城と、相良氏が築いた二城に分かれる。戦国大名相良義滋の居城であった鷹峯城も後者の一つ。貿易港徳淵津 (徳渕津)の発展もこの頃のことである。相良氏はその後島津氏に屈し、さらに島津氏は豊臣秀吉九州征伐を受けた。その後に肥後国を領した佐々成政は、肥後国人一揆を引き起こした責により翌年改易・賜死となるが、球磨郡を除く肥後国は加藤清正小西行長が半国ずつを領することになり、この時に古麓城は廃城となった。
麦島城詳細は「麦島城」を参照

宇土城主となって古麓城を廃した小西行長は、家臣の小西行重に命じて球磨川の三角州に総石垣造りの麦島城を築城させた。麦島の地は北西側が大きな入江となっており、後に開削された前川によって中洲となった。平城の中でも水城(みずじろ)と呼ばれる水運・水利を最大限に活用した特異な城で、船で直接海からも出入りできたと考えられている。豊臣秀吉の直轄地とされ貿易港徳渕津が近くにあって、海上交通の要所であった。天正20年(1592年)6月、文禄の役の間隙を縫って梅北一揆が麦島城に攻め寄せたが撃退している。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた行長が刑死し、小西家は改易となった。球磨郡天草郡を除く肥後52万石を与えられた熊本城主加藤清正は、重臣加藤正方(片岡正方)を城代として麦島城に入れた。元和一国一城令によって熊本藩内の南関城・内牧城佐敷城などが取り壊されても、麦島城は例外的に存続が認められていたが、元和5年(1619年)の大地震のために倒壊し廃城となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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