八代亜紀
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出生名橋本 明代
[1]
生誕 (1950-08-29) 1950年8月29日[2]
出身地 日本熊本県八代郡金剛村
(現:八代市
死没 (2023-12-30) 2023年12月30日(73歳没)
ジャンル演歌歌謡曲ジャズ
職業歌手女優画家
活動期間1971年 - 2023年
レーベルテイチクレコード(1971年 - 1981年)
センチュリーレコード(1982年 - 1985年)
日本コロムビア(1986年 - 2023年)[3]
Virgin Music(2017年 - 2023年)[4]
事務所ミリオン企画
公式サイト ⇒八代亜紀オフィシャルホームページ
八代亜紀 - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
ジュリー・ロンドン

八代 亜紀(やしろ あき、1950年昭和25年〉8月29日[2] - 2023年令和5年〉12月30日[5])は、日本演歌歌手女優タレント画家熊本県八代郡金剛村(現:八代市)出身[6]。本名は橋本 明代(はしもと あきよ)[1]。血液型はB型。
来歴
生い立ち

幼少の頃から父親の歌う浪曲子守唄代わりに聴きながら育つ[7]。そうした影響もあり、八代は歌好きの子供になり、地元の歌唱コンクールなどにも出場していた。

八代が小学5年生の時、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き[7]、そのハスキーボイスに魅せられる。もともと自分自身もハスキーボイスの持ち主だった八代は、その声に若干のコンプレックスがあったが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになる。
15歳で上京してクラブ歌手に

八代市立第六中学校卒業後、地元熊本のバス会社九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)でバスガイドとして勤務する。しかし人前で話すのが苦手なのと、業務中に歌声を披露する機会が無かった為に3ヶ月で退職。その後は地元の「キャバレーニュー白馬」に歌手として雇われる[8][9]。ところが父の会社の従業員が客としてやってきた為に3日で発覚してしまう。そして「不良は家にいらない。」と勘当され、東京にいる従姉妹を頼りに上京した[10]

上京後は歌える喫茶店で学費を稼ぎながら音楽学院に通い基礎を学ぶ。数年で銀座クラブで歌うようになり、学校へは行かなくなった。その頃は主にスタンダードジャズやポップスなどを歌っていた。同じクラブで歌っていた三谷謙(のちの五木ひろし)から芸能プロダクションを紹介される。
歌手デビュー

1971年テイチクより「愛は死んでも」でデビュー。芸名の“八代亜紀”の姓は出身地の八代(やつしろ)市から採っており、語呂の良さから「やしろ」という読みにした[11]。本名である明代より呼びやすい2文字アキとし、また漢字の“亜紀”としたのは「アジア(亜細亜)で何世紀も活躍できるように」との願いが込められている[12]

読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場して10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなったことで、徐々にレコードが売れ始める[13]

1973年に「なみだ恋」が120万枚[14]とヒットした後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など、女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発する。

1979年に新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒットし、1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞する。これら2曲は「港町絶唱」と共に阿久悠浜圭介竜崎孝路のコンビによる「哀憐三部作」とされ、NHK紅白歌合戦では2年連続大トリを務めた。ほどなくして“演歌の女王”と称されるようになる[15][11]
ベテラン歌手へ

1982年、センチュリーレコードへ移籍してこの頃からヒットスターからベテラン歌手としての存在へと変わってゆく。「海猫」「ブルーレイン大阪」「日本海」「陸の船乗り -ロンサム ロード-」「恋瀬川」などを発表する。

1986年日本コロムビアへ移籍。1987年に個人事務所設立。1990年に「花(ブーケ)束」を発表。ポップス調バラードの同曲は八代の新たな一面を引き出し、演歌主体のファン以外からも支持されてロングセラーとなった。

演歌歌手では珍しく全盛期の楽曲全てが連続ヒットし、女性演歌歌手の中では総売上枚数がトップである。オリコンのシングルチャートにおけるトップ10獲得作品数も通算7作で、2011年6月に水森かおりが8作連続シングルチャートトップ10を更新するまで、女性演歌歌手歴代1位を続けた。

アルバムにおいても、オリコンの総合アルバムチャートのトップ10に5作品があり、演歌歌手としては氷川きよし五木ひろし森進一に次ぐ第4位である。総合アルバムチャートトップ10獲得連続年数は1974年から1976年まで3年連続で、オリコンによれば2007年9月現在で演歌歌手として、7年連続の氷川きよし、4年連続五木ひろしに次ぐ第3位[16]である。
晩年?死去

2012年頃からジャズ、ブルースなどを本格的に歌うようになる(後述)。その後は、年間を通じて全国を巡るコンサートやディナーショーは、演歌・ジャズ・ブルースを構成した内容で、ジャンルレスを掲げた公演を続けていた。また、長年様々な形でのボランティア活動や故郷での地域社会貢献活動などにも積極的に関わっていた(後述)。

2023年9月12日、膠原病の一種であり指定難病である抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎のため、年内の活動を休止することを発表した[17]

以降は療養を続けてきたが、同年12月30日、東京都内の病院で死去した。73歳没。葬儀は八代の遺志により、明けて2024年1月8日に事務所スタッフのみで執り行われ、訃報は翌9日に所属事務所より公表された[18][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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