八丈小島のマレー糸状虫症
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マレー糸状虫八丈小島(2017年9月撮影).mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}八丈小島 八丈小島の位置

八丈小島のマレー糸状虫症(はちじょうこじまのマレーしじょうちゅうしょう)とは、伊豆諸島南部の八丈小島東京都八丈町)にかつて存在したリンパ系フィラリア症を原因とする風土病である。この風土病は古くより八丈小島および隣接する八丈島では「バク」と呼ばれ[† 1]、島民たちの間で恐れられていた[1]

本疾患の原因は、フィラリアの一種であるマレー糸状虫 Brugia malayi ICD-10(B74.1)[2]によるものであり、八丈小島は日本で唯一のマレー糸状虫症の流行地であった[3][4][5][6]

フィラリアは、イヌ心臓に寄生する犬糸状虫 Dirofilaria immitisから、イヌの病気としても知られている。しかし、かつての日本国内ではヒト発症するフィラリア症(以下、本記事で記述するフィラリア症はヒトに発症するものの意として扱う)のひとつバンクロフト糸状虫 Wuchereria bancrofti、ICD-10(B74.0)[2]による流行地が、北は青森県から南は沖縄県に至る広範囲に散在していた。特に九州南部から奄美沖縄へかけての南西諸島一帯は、世界有数のフィラリア症流行地として世界の医学界で知られていた[7][8]

日本におけるフィラリア症の防圧[† 2]・克服へ向けた本格的な研究は、1948年(昭和23年)から始まった東京大学付属伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)の佐々學による八丈小島でのフィールドワークと、それに続く同島での駆虫薬スパトニンを用いた臨床試験が端緒である。この八丈小島で得られた一連の治験[† 3]データや経験は、のちに続く愛媛県佐田岬半島長崎県鹿児島県奄美沖縄県各所での集団治療を経て、最終的に日本国内でのフィラリア症根絶へ向かう契機となる日本の公衆衛生史上重要な意義を持つものであった[9]

そして、1977年(昭和52年)に沖縄県の宮古諸島および八重山諸島で治療が行われた患者を最後に、ヒトに感染するフィラリア症の日本国内での発生事例は確認されなくなった[10]1988年(昭和63年)の沖縄県宮古保健所における根絶宣言により、日本は世界で初めてフィラリア症を根絶した国となった[11][12][13]

ヒトに寄生して発症するフィラリア症はフィラリア虫の種類ごと世界各地に8種あるといわれ[14]、そのうち日本国内のフィラリア症はバンクロフト糸状虫によるものがほとんどであった。しかし、八丈小島のフィラリア症はバンクロフト糸状虫ではなく、東南アジアを中心とする地域で流行するマレー糸状虫によるものであり、これは日本国内では唯一の流行地であった。

本記事では、かつて八丈小島でバクと呼ばれて恐れられていたマレー糸状虫症と、その防圧の経緯について解説する。
八丈小島のバク八丈小島と八丈島の位置および標高図。
八丈小島(左の小さな島)
八丈島(右の大きな島)八丈島より遠望した八丈小島(2017年11月撮影)八丈小島の空中写真。島の北西部に鳥打村、南東部に宇津木村があった。2013年5月9日撮影。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

八丈小島伊豆諸島南部の八丈島の西北西約7.5km東京の南約287kmの海上に位置する安山岩で構成された火山島で、面積3.07 km2、周囲8.7 km、最高標高点616.6メートルの太平山がそびえる円錐状島嶼である[15][16][17]。島の海岸線は海食崖で囲まれ、平坦地はほとんどない急峻な地形であるが、かつて八丈小島は人々が居住する有人島であり2つの村が存在していた。八丈島から直接眺められる八丈小島南東側の宇津木村(うつきむら)と、八丈小島の北西側に位置するために八丈島からは直接見ることのできない鳥打村(とりうちむら)である[18][19][20]。八丈小島の急峻な地形により陸路は無く、お互いの交流は殆ど無かった。

かつて八丈小島にはバクと呼ばれる風土病があり、島の人々を長年にわたり苦しめ続けていた。隣接する八丈島の人々はこの病気を「小島のバク」と呼んで恐れ[21][22][23]、八丈島の漁師海女は小島近くの海域で漁は行っても、病気を恐れて小島へは上陸しなかったという[24][25][† 4]

八丈小島に伝わる民謡に次のような一節がある。

? わりゃないやだよ この小島には ここはバク山 カブラ山[27]

カブラとは大かぶのことで明治初期には島の中央にそびえる太平山の山頂付近で栽培されていたという。バク山のバクとはバク病のことであり1881年の明治の頃「バク」という呼び名の風土病が存在することが一部の医療関係者の間で知られ始めていた[28]

八丈小島の島民の多くは10代半ばまでに熱発作を出すといわれており、突然何の前ぶれもなく寒気と戦慄に襲われ、震え(シバリング)を起こして高熱が出る。バクだけが直接の原因となって死に至ることはなかったものの、バクにかかった島民はさまざまな症状に苦しめられた。バクは寒気発熱に始まることが多く、おおよそ次のようなものであった。その多くが畑仕事をしているときに発症し、周囲の人々に「バクが来たぞ」と大声で知らせながら急いで家に戻り、布団に潜り込んで高熱と震えが治まるまでやり過ごしたという[29]。熱発作は数日で自然に治まり畑仕事に戻るが、そのうちにまた激しい熱発作が起きる。この2回目以降の熱発作症状を八丈小島では「ミツレル」と呼び[† 5]、ひどい場合には、1か月の間に何度もミツレル熱発作を繰り返すため、仕事や日常生活に支障をきたす。このような状態を年単位で繰り返していると、やがて足のリンパ節が腫れ始める。腫れた部位はリンパ機能が低下することから傷が治りにくくなり、小さなトゲが刺さるなど、ほんのわずかの外傷による刺激で熱発作や戦慄を何度も起こし、中には意識障害に陥るケースもあったという。数年が経過してリンパ節の痛みや腫れが治まると、今度は足が徐々に太く腫れて皮が厚くなり患部に強い痒みが起きる。耐えがたい痒みゆえに絶えず爪で掻き続けるため、掻いた部位の皮膚がさらに肥大してしまい、また掻いては太くなるという悪循環に陥る[29]

近代医学によって原因が解明される以前の八丈小島の人々は、病気の原因は島の水に毒があるからだと考えており、誰も知らない大昔から小島の人間は皆バクにかかってきたため、バクにかかるのは仕方のないことであり、治るはずがないと諦めていたという[30]

八丈小島は1969年(昭和44年)の集団離島により無人島となったが、集団離島するまで電気水道といった基本的なインフラは満足に整備されておらず、商店は1軒もなく交番も設置されていなかった[31]。また、八丈小島には宇津木村鳥打村ともに係留施設が整備された港湾がなく、1か月に数便しかない八丈島からの生活物資輸送も兼ねた定期船漁船などの小型船の乗降は、下船時には甲板から船着き場の岩場へ直接跳び移って上陸し、乗船時には甲板へ跳び乗るといった方法であった。そのため、強風時や波が高い気象条件下では接岸できず頻繁に欠航になり、旅客の往来だけでなく八丈島からの生活物資の輸送や郵便物の配達も数週間にわたって途絶えてしまうことが多々あった[17][20][32]

昭和30年代になって島内の小中学校に自家発電機が整備され、八丈島との間で無線通信が行えるようになり、島民の生活基盤は徐々に改善されつつあった。それでも一般家庭における電気・電話は1日の間に使用できる時間が限られるなど、1969年(昭和44年)の集団離島時までインフラは不完全のままであった[33]。また、宇津木、鳥打の両村とも小中学校(小中併設校)は設置されていたが[18]、いずれも集団離島時まで医師のいない無医村であった[20]

八丈小島の島民にとって特に深刻であったのは水不足の問題であった。鳥打村では海岸沿いの岩場(ロックプールと呼ぶ)に貯まった雨水を採取して利用し、宇津木村では海岸の断崖にある洞窟の天井から滴る水滴を桶などで溜めて利用していたといい、水滴量が減少する冬季には朝から夕方まで溜めても、わずか15(約2.7リットル)が溜まるに過ぎなかったという[34]。一方の鳥打村にはごく小さな湧水が存在したものの、やはり人々の生活用水を確保するほどの湧水ではなかった[35]。八丈小島は保水性に乏しい火山性の地質かつ急峻な地形であるため[20]河川は存在せず井戸水にも恵まれなかった。


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