全欧安全保障協力会議
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1975年の第1回会合で合意文書に署名する各国首脳
手前左からヘルムート・シュミット(西独)、エーリッヒ・ホーネッカー(東独)、ジェラルド・R・フォード(米)、ブルーノ・クライスキー(オーストリア)

全欧安全保障協力会議(ぜんおうあんぜんほしょうきょうりょくかいぎ、あるいは欧州安全保障協力会議 おうしゅうあんぜんほしょうきょうりょくかいぎ、英名:the Conference on Security and Co-operation in Europe:CSCE)は、欧州全体の安全保障を、政治体制、地理的位置、経済体制に関わりなく追求するために、1973年から1975年に開催された会議。その後の3度にわたる再検討会議を経て、1990年のパリ首脳会議で事務局設置に合意し実質的な国際機構化が始まった。これらの会議のプロセスと枠組み全体を総称してCSCEと呼ぶ。

設立当時の参加国(participating states)は、アルバニアを除いた全ヨーロッパ諸国と米、カナダの35ヶ国。その後、アルバニアの加盟、ソ連やユーゴスラビアの解体後の独立国の新規参加に伴って参加国は増大した。1994年12月のブダペスト首脳会議において名称変更が採択され、現在は欧州安全保障協力機構(OSCE)として活動する。
歴史
構想

[1]全欧安保の構想は、1954年のソ連外相のモロトフの提案にまで遡る。1949年のNATO結成、1955年のワルシャワ条約機構(WP)結成により、欧州の安全保障の東西分断が確定する中、東西双方から全欧規模の安全保障の機構についての提案がなされた[2]。東側の狙いは、米軍を欧州大陸から排除しNATO(及びワルシャワ条約機構を同時に)解体することでNATOを弱体化ないし無力化することにあった。加えて、ハルシュタイン・ドクトリンによって孤立化していた東ドイツを西側に国家承認させることを目標とした。西側の狙いは、東西間の人の自由な移動など、東側の社会主義体制が行いにくいテーマを安全保障と結びつけることにより、東側の社会主義体制を揺さぶることにあった。むろん、1953年のベルリン暴動、1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春などの反ソ的運動が東側の社会主義体制を揺さぶっていたものの、西側は、東側国内の反乱を支援する有効な政治的手立てを有していなかった。

1966年7月のWPのブカレスト宣言(「欧州の平和と安全の強化に関する宣言」、ワルシャワ条約機構政治諮問委員会)は、CSCEへの第二歩であった。@全欧規模での経済的、文化的、技術的、学術的接触のための機関設置、ANATOとWPの解体を通しての全欧諸国の効果的な安全保障機構の設立、B外国の軍事基地の廃止・非核地帯の設置、C西独の核保有の可能性の放棄、D現存国境の保全、E二つのドイツ国家の存在の承認、といった項目が盛り込まれていた [3]。このうち経済・技術面での協力、現存国境や二つのドイツの承認といった内容は、まさしく9年後のヘルシンキ宣言に引き継がれた。ソ連が全欧安保構想を推し進める動機は、1968年の「プラハの春」への軍事介入によってソ連の対外イメージが大きく傷ついたことにより、一層増大した 。翌年、東側は、NATO解体などの実現困難なテーマを提案から外して歩み寄りをみせ、CSCEへの三歩目としてWPの1969年3月の「全欧州諸国へのアピール」(「ブダペスト・アピール」)が発表された。ここで東側は、全欧州の安全保障の制度発足の前提条件を、@現存国境の保全、A二つのドイツ国家の存在の承認、Bいかなる形であれ西ドイツ(当時NPT未加盟)が将来にわたり核兵器保有の意思を放棄すること、の三つに絞って再提案した[4]

東側の再提案に対し、NATO側は1969年4月、ワシントン外相会議でCSCEの条件を明確にした 。「アメリカ及びカナダを含む全ての政府」が東側との交渉を開始する用意があるとし、東側構想の会議開催にアメリカとカナダの参加をCSCE開始の必要条件であるとした[5]。同年12月のNATO外相会議(ブリュッセル)では、西側のCSCE構想は具体化し、体制選択権などが欧州の平和と安全保障の基礎であること(第2項)、経済交流・文化交流が関係国の相互利益をもたらすこと(第11項)とされ、特に後者については「東西諸国間の人々、思想、情報のより自由な流れによって、これらの分野で達成されることが多くなる」ことが期待された 。また議題安全保障問題で交渉が進むことの他に、人の国際的移動を扱う人的接触(human contact)の分野の合意を求めた。特に、人的接触は、西ドイツを中心としてEC諸国が強く要求した課題であった。

 CSCEの外交的成果を求めたソ連は、米加の会議参加や人的接触の議題について西側にある程度譲歩せざるを得なくなった。既にヘルシンキ宣言を先取りする形でユダヤ人の出国も拡大傾向にあり、また1970年の西独・ソ連のモスクワ協定によってソ連在住のドイツ人の出国の道も開かれていた。
人権・人道と安全保障のリンケージ

ソ連国内では、社会主義体制に起因して自由を求める運動が拡がりつつあった。もともと、ソ連では「人民の権利」はあっても普遍的人権に関する社会的通念は少なかった。例えば、1948年採択の世界人権宣言はロシア語では出版されておらず、ソ連の通常の報道では世界人権宣言について議論されなかった。人権問題がソ連国内で訴えられ始めるのは1965年頃からである 。68年の「プラハの春」に関するワルシャワ条約機構軍の軍事介入は、ソ連の反体制派知識人には衝撃的であった。プラハの春は、「人間の顔をした社会主義」をスローガンにしていたが、そのスローガンは戦車によって押し潰された。その同年、核物理学者で「ソ連水爆の父」サハロフ(Andrei D. Sakharov)は、「進歩、平和共存、知的自由に関する考察」(別名、サハロフ・メモランダム)を西側で発表し、ソ連知識人の行動に俄かに注目が集まった[6]。ソ連の人権問題は、当時裁判で有罪判決を受けた反体制派がソ連に存在するということを西側がようやく具体的に知るようになるにつれ顕在化し、サハロフは、積極的に自国の政治犯のおかれている状況などについて意見を表明するようになった[6]

同時に、ソ連国内のユダヤ人の出国要求は、第三次中東戦争を契機に盛り上がりつつあった。第三次中東戦争の翌年、ソ連共産党中央委員会は、1500名のイスラエルへの永住出国を認めた[7]。更には、ソ連の民族政策が失敗しているという認識が拡散することへの恐れである。したがって、ユダヤ人にせよ他の民族にせよ、ソ連からの出国を認める場合は、「家族の再結合」という人道的目的に絞られなければならなかった 。1972年8月、ソ連は、出国希望者のうち高等教育を受けた者を対象に高額の教育税(約2万ルーブル:当時のレートで約730万円)を課す規則を発令する。西側ではこの教育税への非難が大きくなった。折しも同年10月、米ソ間では、対ソ最恵国待遇(MFN)供与を含む米ソ通商協定が調印され、ユダヤ人出国問題と米ソ貿易との連繋が生まれた。米議会では、民主党のジャクソン(Henry M.Jackson)上院議員及びバニック(Charls A.Vanik)下院議員によって1972年10月に、ソ連の警戒心を見越して出国と貿易問題を連繋する法案が提案される(ジャクソン・バニック修正条項)。

ソ連を初め社会主義国では、国内の検閲はもちろんのこと、西側からの情報流入を厳しく制限していた。西側の新聞の販売は極度に限定され、東側向け短波放送はジャミング(電波妨害)されていた。東側に駐在する外国人ジャーナリストの活動も厳しく制限されていた。

これらの人権・人道問題を西側の軍事同盟であるNATOが取り上げることは、1966年頃までほとんどなかった(1950年代の雪どけ期を除く)。しかし西ドイツでブラントが東方外交を始めたことがその転機となった。東方外交には、東西の現状維持を認める代償として「接近による変化」という新しいアプローチをとることによって、東側の社会主義体制を東西間接触の増大によって徐々に内側から変化させていく狙いがあった。その文脈で、NATOでは既に1967年に、東西分断のベルリンが「政治的意思を自由に表現できる」都市になること、そして「東西両ドイツ間で人的接触、経済的接触、文化的接触」が進むことへの期待が示された 。特筆すべきことに、ここで示された、基本的自由、人的接触、経済的接触、文化的接触への期待は、後にヘルシンキ宣言で結実する理念と共通する[8]

西独の東方外交の推進、ドイツ統一問題への再度の注目という要因とともに、1968年の「プラハの春」に対する東側の軍事介入への批判が重なり、西側は東側の人権問題に積極的に関心を寄せるようになる。時を同じくして、東側は、全欧の集団安全保障構想を西側に呼びかけた。このことが、人権と安全保障をセットにする言説空間を形成し、西側が東側国内の問題に関与する政治的手立てが進んだ。東西の狭間で、非同盟・中立諸国(N+N諸国)のフィンランドは、同じN+Nであるオーストリア、スイス、スウェーデンにCSCE構想を呼びかけた[9]
CSCE準備会議(1972年11月から73年6月まで)

ようやく開催されたCSCE準備会議では、CSCE本会議の議題などを決めることとされた。準備会議開始にあたって、安全保障、経済交流、人道的分野という3つの議題群(後の第一、第二、第三の「バスケット」)が設けられることに合意されていた。

西側が人的接触についての議題を本会議の独立した項目としてとりあげ、後には人の移動と情報の浸透を別々の小委員会にふりわけるよう求めた。ソ連は、本会議開催を焦るあまり、すぐに人的接触の分野を別個の議題としてとりあげることに同意する兆候を示し、12月にブレジネフによってそれは公式に発表され、対抗提案も含む形で合意が形成されていった 。この時点でのこの分野の西側の提案は穏健的・段階的なものであったが、米ソ間通商協定の合意(1972年10月)、SALTU交渉開始(1972年11月)、東西ドイツ基本条約調印(1972年12月)を経て、ソ連のCSCE早期終結願望を西側が察することとなり、西側の提案攻勢はエスカレートし始めた[8]

当初スイスが提案し、ヘルシンキ宣言後に大きな争点となる、第一バスケットの<第七原則>(人権と基本的自由)について、ソ連は当然なことに消極的であったが、国連憲章に既に記された内容であったため本会議の議題とすることに強硬に反対できなかった。

ソ連はこの議題について当初提案せず、このスイス提案にそって<第七原則>の議題を認めた(あくまでも議題としての合意に過ぎぬことに注意)。他にも、西側提案の、人民の自決権(第八原則)、国際法の義務の誠実な履行(第十原則)についても同様に西側の提案を受け入れた。当初、ソ連は、人権問題は「国家間を律する関係」の議論ではなく、また人民の自決権も植民地人民に適用されるべきものであるとして、西側の提案を退けていた。ところが、議論の俎上で、国連憲章に掲げられている原則をCSCEで拒否する理由がないことを指摘されるに及び 、ソ連はこれらの提案に早い段階で合意した。


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