全日本F3000選手権
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全日本F3000選手権にも参戦していたレイナード93D

全日本F3000選手権(ぜんにほんエフさんぜんせんしゅけん、All Japan F3000 Championship)は、1987年から1995年まで日本で開催されていた自動車レースの1カテゴリーF3000規定のフォーミュラカー(オープンホイール)を使用した四輪レースで、当時の国内トップカテゴリーの1つであった。
概要
導入

国際F3000選手権の開始から2年遅れの1987年より国内トップフォーミュラである全日本F2選手権に代わって開催。

ただ日本自動車連盟(JAF)は、1987年までF2車両による選手権(条件付でF3000車両の参加を認める)を継続し、1988年からF3000に移行する考えであった。しかし、実質的な運営団体である各主催者や参加者は、JAFの意に反して1987年からのF3000への移行を決断し実行。このため1987年のF3000レースにはJAFによる全日本選手権タイトルは掛けられておらず、全日本F2選手権は「参加者無しでチャンピオン該当者無し」という前代未聞のシーズンとなった。シーズン終了後、統括側と運営側による話し合いがもたれ、翌1988年から正式に「全日本F3000選手権」として開催されることになった。
隆盛

シリーズが始まった時期がバブル景気F1ブームが重なった事や、星野一義高橋国光長谷見昌弘松本恵二関谷正徳などのベテランや、黒澤琢弥小河等岡田秀樹中谷明彦和田久金石勝智影山正彦桧井保孝などの若手日本人、ロス・チーバーマウロ・マルティニトーマス・ダニエルソンジェフ・クロスノフアンドリュー・ギルバート=スコットトム・クリステンセンパウロ・カーカッシ等といった若手外国人ドライバーが多数参戦したことにより驚異的な充実振りをみせた。

また、鈴木亜久里片山右京鈴木利男中野信治野田英樹高木虎之介服部尚貴エディ・アーバインジョニー・ハーバートハインツ=ハラルド・フレンツェンミカ・サロエマニュエル・ピロパオロ・バリッラマーク・ブランデルファブリツィオ・バルバッツァエンリコ・ベルタッジア[1]マルコ・アピチェラローランド・ラッツェンバーガージャン・アレジミハエル・シューマッハ(ブランデルとアレジ、シューマッハはスポット参戦)など後にF1にステップアップしたドライバーや、ジェフ・リース[2]ケネス・アチソン[3]ヤン・ラマースクリスチャン・ダナーフォルカー・ヴァイドラー[4]エマニュエル・ナスペッティ[5]などの元F1ドライバーが参戦していた。また芸能界からは岩城滉一近藤真彦が参戦していた。

さらにドライバーのみならず、各チームやエンジンサプライヤー(エンジンチューナー)、タイヤサプライヤーの技術レベルも極めて高く、エンリコ・ベルタッジアは「インターナショナルF3000はパワフルなF3、全日本F3000は3,000ccのF1」と評した[6]

また、バブル景気を受けて大手企業をはじめとした多様なスポンサーが参入したことで新たなチームやドライバーの出走が相次いだ。最盛期の1990、1991年には出走台数が30台を超え、予選を2グループに分け、予選落ちも発生。また、観客数が1レース5万人を超えることも多かった。
移行

しかし、バブル景気の崩壊後は次第に参加台数が減少し、1994年には平均観客数も2万人程度となるなど観客も減少していった。このため当時F1や全日本F3000のテレビ中継を行っていたフジテレビが中心となり日本レースプロモーション(JRP)を設立。1996年に、JRPが主催するかたちで国際F3000のワンメイク化とは違う独自性を持ったカテゴリー「フォーミュラ・ニッポン」に移行する事となった。
詳説ヤマハ・OX77エンジン

エンジン
無限(現・M-TEC)・MF308フォードコスワースDFVヤマハ・OX77も含む)、ジャッド・BVなどが、エンジンチューナー(東名エンジンケン・マツウラレーシングサービス 他)より供給された。

シャシー
マーチローララルトレイナードといったヨーロッパの量産コンストラクターが主流で、日本の童夢ムーンクラフトも参戦。1994年には童夢が国産シャシーで初めてタイトルを獲得している。

タイヤ
ブリヂストンダンロップ横浜ゴムの3メーカーが参加。国際F3000ではエイヴォンバイアス構造のタイヤを独占供給していたのに対し(1992年よりラジアルタイヤに移行)、各メーカーが早くからラジアルタイヤを投入して競い合ったことから、グリップ力は国際F3000よりも強力で、よりF1に近いものであったと言われている。ただし最終年の1995年は、阪神・淡路大震災によりダンロップの神戸工場が壊滅的な打撃を受けたため、ブリヂストンと横浜ゴムの2社供給となった。

予算規模
全日本F3000の発足当初は日本がバブル景気に突入した頃でもあり、参戦チームの予算規模が年を追うごとに拡大していった。CABIN RACINGが全日本F2最終年の1986年から活動を開始したが、全日本F2・富士グランチャンピオンレース合わせてのスポンサー費が2億円、1987年にレイトンハウスとスポンサー契約をしたホシノレーシングの活動予算がF3000・富士GC 合わせて2億5,000万円とされる。なおCABIN RACINGの2億円という金額について「わが国で年間1億円の予算はレーシングチームにとって夢の金額だった」[7]、ホシノ+レイトンハウスの2億5,000万円については「日本のレース界では空前の額」[8] とされており、他チームの運営費はこれらを下回っていた。それが1988年には、F3000チームの運営には年1.5?1.8億円が必要といわれるようになり[9]、1990年にはトップチームの予算は年間4?5億円とされ[10]、「1991年には年間最低3億円が必要」[11]といわれるなど、F3000チームの予算規模は急拡大した。
高性能タイヤの功罪

全日本F3000ではブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマの3メーカーによって熾烈なタイヤ開発競争が行われていた。ロス・チーバ―はこの状況を「全日本選手権とは何かと問えば、それは3つのタイヤメーカーの争いに他ならない」[12]と表現している。その結果F1並に予選用タイヤが用意されたり、ダンロップのように一国内選手権のためにオフシーズンに海外テストを行うメーカーも存在した。その結果全日本F3000のタイヤは極めて高性能なものとなり、予選用タイヤを使用するとコーナリングスピードではF1を凌ぐほどになっていた[13]

ミハエル・シューマッハは、「ボクはF1に行くから、高度でよりF1に近い日本のF3000は勉強になる」[14]として、1991年に国際F3000ではなく全日本F3000にスポット参戦し、その1か月後にベルギーGPジョーダンからF1デビューしたが、「ジョーダンで予選に出場した時も、F3000とF1と、それほどのギャップがあるとは思わなかった」と語っている[15]

高性能なタイヤによって、全日本F3000はハイレベルなレースが展開されるようになったが問題がなかったわけではない。一つにはレースの要素としてタイヤの重要性が突出していた、ということである。1989年に全日本F3000とエイヴォンタイヤのワンメイクで行われていたイギリスF3000を掛け持ち参戦していたアンドリュー・ギルバート=スコットは全日本F3000について「タイヤが占めるマシン性能のパーセンテージが大きいのに驚かされる」、「大げさに言うとタイヤメーカーが勝敗の鍵を握っていると考えていいんじゃないか」と指摘している[16]

また、(サーキットの路面も含めて)ヨーロッパのレース環境と異なる状況に全日本F3000がなっていたことを鈴木亜久里が指摘している。1989年からF1に参戦するようになった鈴木は、日本の走り方ではタイムが出ないことに気づき、ライン取りを日本時代とは変えていったという[17]。1992年からF1に進出した片山右京も「日本の走り方ではF1で全くタイムが出ない」と同様の指摘をしており、「F1用のグッドイヤータイヤの特性に合わせてコーナー出口でのトラクションの掛け方を変えた。具体的には、もし日本でグッドイヤーに向いてるようなコーナーを外から思い切り入って横Gを掛ける走り方をすると、日本のタイヤはコーナーの中でタイヤがつぶれる動きになるんです。コーナー出口でそれが反発する動きになって、オツリみたいな感じでマシンがふらついてしまう。僕とか、ジョニー・ハーバートが日本の予選で苦労したのもその影響です。全日本F3000の方がF1のグッドイヤータイヤよりも神経を使った。」と違いを証言している[18]
年表

1983?1986年

1983年秋、ターボエンジン隆盛に伴いF1で余剰気味となっていたコスワースDFVエンジンの転用方法として、
バーニー・エクレストンが新カテゴリー、F3000を提案[19]

1984年7月、FISA、1985年からF3000規定施行を決定[19]

1984年11月30日、JAF、1988年までの全日本F2選手権継続を決定[19]

1985年3月24日、ヨーロッパF3000選手権第1戦がシルバーストン・サーキットで開催される。

1985年8月、F1・オーストリアグランプリと併催のヨーロッパF3000・第9戦エステルライヒリンクホンダランド関係者が視察[19]

1985年9月、ホンダランド(現:ホンダモビリティランド)と全日本F2関係者間で会議。1987年の全日本F2・最終戦からF3000マシンと混走、1988年からF3000移行で合意[19]

スピードスターレーシング、マーチから1986年の全日本F2選手権用シャシーをF3000仕様で購入[20]

1986年4月13日、国際F3000選手権第1戦がシルバーストン・サーキットで開催される。

1986年10月13日、スピードスターレーシング、鈴鹿サーキットでF3000マシンでテストを行う[21]

1986年11月19日、1987年から全日本F3000シリーズ開催を決定[22]

1986年12月1?4日、各タイヤメーカー、鈴鹿サーキットでF3000用タイヤのテストを行う[19]



1987年

3月7・8日、全日本F3000シリーズ第1戦が鈴鹿サーキットで開催される。出走17台(マーチ14台、ローラ3台)。星野一義、全日本F3000開幕戦を制す。

5月9・10日、西日本サーキットで第3戦を開催。鈴木利男初優勝。

7月25・26日、菅生サーキットで第6戦を開催。ヤマハの5バルブエンジン、OX77がデビュー。

8月8・9日、富士スピードウェイで第7戦を開催。出総台数が20台に。ヤマハOX77エンジン、ヤン・ラマースのドライブにより初優勝。ダンロップ、F3000初優勝。

9月11日、フットワーク/ムーンクラフト、1990年からのF1進出計画が明らかに。


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