全日本産業別労働組合会議
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全日本産業別労働組合会議
(産別会議、産別)
Congress of Industrial Unions of Japan
産別会議の組合旗
設立年月日1948年8月21日
解散年月日1958年2月15日
後継組織(産別会議記念会)
(平和と労働会館)
組織形態ナショナルセンター
加盟団体数21団体・準備会(1946年結成時)
7団体(1950年12月末)
2団体(1955年6月末)
2団体(1958年解散時)
組合員数約160万人(1946年結成時)
111,500人(1950年12月)
11,540人(1955年6月末)
6,106人(1958年解散時)
国籍 日本
本部所在地東京都港区芝新橋7丁目12番地
産別会館
加盟組織世界労働組合連盟(世界労連)
支持政党なし

全日本産業別労働組合会議(ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ、英: Congress of Industrial Unions of Japan、CIU)は、戦後初期に存在した日本における労働組合のナショナルセンター。略称は産別会議(さんべつかいぎ)、さらに省略して産別(さんべつ)とも。
概要

第二次世界大戦の敗戦後、日本の労働運動は急速な盛り上がりを見せた。産別会議は、その際に日本共産党の影響力の強い左派の労働組合を集めて結成されたナショナルセンターである。結成したのは1946年8月21日で、電気・国鉄鉄鋼業・機器製造業・石炭鉱業など21単産、当時の組織労働者の40%以上に当たる163万人の組合員をもって結成された。政治的には右派日本労働組合総同盟(総同盟、組合員数85万人)と競合し、二・一ゼネスト、労働立法の制定、産業復興、最低賃金制の確立、労働協約の締結など、戦後初期の日本の労働運動において重要な役割を果たした。また、国際的には世界労働組合連盟(世界労連)とも友好関係にあった[1]

1947年には、総同盟やその他の労働組合とともに、労働戦線統一の第一歩として全国労働組合連絡協議会(全労連[2]、組合員数450万人)を立ち上げた。しかし、1948年頃から産別会議を批判する勢力が強まり、産別民主化同盟(産別民同、民同)が結成される。民同派は2年足らずのうちに官民を問わず労働運動全体に波及して、運動の主導権を握った。ただし、民同派は反共主義が先行して、労働運動の民主化という本来の目的からそれた部分も否定できず、左右対立と組織分裂はその後の労働運動にも大きな課題を残すこととなった[3]。産別会議は、民同派が相次いで脱退・離脱したことにより、組織は弱体化。さらに1949年以降、レッドパージによる弾圧で打撃を受けた。1950年日本労働組合総評議会(総評)が結成された時点で少数派に転落し、共産党の混乱が続くなかでその後も勢力を回復することはできず(1950年代半ばで組合員数1万数千人)、1958年2月15日に解散した。
歴史戦後最初のメーデー(1946年)。当時分裂していた労働戦線の統一が決議された。
産別会議の結成

第二次世界大戦の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、日本の非軍事化と民主化のために秘密警察の廃止や婦人解放などと並んで、労働組合の結成を奨励した。これに伴って1945年10月以降、各地で労働組合の結成が相次いだ。戦前・戦時から活動を続けてきた共産党員を含む左派の活動家は、各地域や各地域で労働組合の結成に取り組んだ。このうち、地域別に組織化に取り組んだグループは、神奈川県東京都などで工場代表者会議や地区労働組合協議会をつくった。1946年1月20日には関東地方労働組合協議会が結成され、経営者による御用組合反対、労働組合の地方組織の全国協議会の結成、統一戦線の推進、思想・信仰・政党支持の自由、民主的な代表制などを打ち出した。他方で、産業別に組織化に取り組んだグループのうち、いち早く組織の単一化を果たした日本新聞通信労働組合(新聞通信、新聞単一)の呼び掛けで、2月20日に産別会議準備会の発起人会が発足した。4月以降、産業別の全国組織が相次いでつくられ、これらを結集して産別会議が結成された。1946年8月19日?8月21日に開かれた創立大会では、21団体、約160万人が組織されていると報告された[4]。これは、同時期に結成された右派のナショナルセンターである総同盟よりも多いものであった。

総同盟が府県連合会を基礎としていたのに対し、産別会議は産業別労働組合を基礎とし、世界労連の基本綱領に基づく綱領をもっていた[1]。産別会議綱領は、労働者と労働組合の権利擁護、旧制度・旧政治勢力の一掃、週40時間労働制や社会保険の獲得、女性・少年労働者の保護、経済再建、労働戦線の統一、労農同盟や国際連帯が謳われ、いずれも「……ために闘う」で結ばれていた(# 綱領・目的を参照のこと)。参加した労働組合は、読売争議・日本鋼管鶴見製鉄所争議・東宝争議などを行った戦闘的な組合を多く抱えていた。
政府・占領軍との対立と労働攻勢

敗戦後、高まりを見せていた労働運動に対して、占領軍や日本政府はこれを抑え込もうとした。日本政府は1946年2月1日、生産管理闘争を経営者の所有権侵害として事実上否定する司法・内務・商工・厚生の四相声明を発表し、占領軍も食料メーデー後に「暴民デモを許さず」の声明をマッカーサー司令長官が出した。さらに、第1次吉田内閣6月13日に「社会秩序保持に関する声明」を発表して、社会秩序を乱す恐れのある大衆運動の取り締まり、生産管理戦術の否認などを宣言した。政府は労働関係調整法の制定を図り、8月になると国鉄・海員などで復員によって増加した労働者数の削減を図った。こうして、日本政府・占領軍と労働運動側の緊張は高まった。

このような状況のなかで、労働運動側はストライキ戦術によるより強硬な闘争を組織して、8月末から9月にかけて国鉄や海員において大量馘首の撤回や大幅賃上げなどの成果をおさめた。産別会議も9月19日に最高闘争委員会を設置して、馘首絶対反対、最低賃金制の確立と待遇改善、産業別統一団体協約の獲得、吉田内閣打倒などの目標をかかげた産別十月闘争(10月攻勢)に取り組んだ[5]。まず、新聞通信放送支部が争議に突入し、10月5日にはNHKラジオが放送を停止した。続いて電産協も争議に突入し、停電ストや送電停止戦術などを駆使して、生活費を基礎とする最低賃金制(電産型賃金体系)を勝ち取った。11月1日には、労働組合と経営者団体との産業別の団体協約基準案を発表した。また、日教労が呼び掛けた「最低生活権獲得全国教員組合大会」や全逓大会も、最低賃金制の確立と待遇改善、団体協約の締結などの要求を決議して、次第に公務員労働者の運動が争点化することとなった。

10月以降運動を続けてきた教員・全逓・国鉄・官公庁の労働組合は、11月26日に全官公庁共同闘争委員会を立ち上げて、大幅賃上げと最低賃金制の確立、越年資金の支給、団体協約の締結などを共同で要求した。産別会議もこの動きを支援し、社共両党・日農・総同盟などとともに12月17日の「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」に参加した[6]。こうした動きのなかで、産別会議・総同盟・日労会議その他の共同がつくられ、翌1947年1月15日には全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が、産別会議・総同盟ほか30組合の参加によって組織された。吉田政権が労働組合を敵視するなかで、政府と労働運動の対立は頂点に達して二・一ゼネストに突入することになった[7]。このように、産別会議は戦後初期の労働攻勢を主導して、労働組合の組織化、馘首撤回や労働者の権利擁護、待遇改善の実現、団体協約の締結などに大きな役割を果たした。日教組結成大会(1947年)。2.1スト後の労働戦線統一の機運のなかで生まれ、産別会議に加盟していた旧・日教労系の組織も参加した。
全労連の結成と労働戦線の統一の動き

二・一ゼネストは占領軍の命令で挫折したものの、一定の待遇改善、労働協約の締結などの成果を獲得するとともに、労働運動の盛り上がりのなかで対立していた労働団体が協力する機運が生じた。全闘の解散後に全国労働組合会議準備会を組織し、曲折のすえに1947年3月10日、単一のナショナルセンターへの第一歩として全国労働組合連絡協議会(全労連)を結成した。全労連には産別会議・総同盟・日労会議・官公庁労組・その他民間労組が加盟し、当時の組織労働者の84%にあたる420万人を組織した。また、各産業でも組織統一が取り組まれ、国鉄では国鉄労働組合、教員組合では日本教職員組合、化学産業では化学労働組合全国協議会(化全協)、公務員関係では全官公庁労働組合連絡協議会(全官公)が結成され、産別会議系の労働組合もこれらに参加した。


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