全日本プロレス中継
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全日本プロレス中継
ジャンル
プロレス実況中継番組
オープニング「日本テレビスポーツのテーマ
製作
制作日本テレビ

放送
音声形式モノラル放送ステレオ放送
放送国・地域 日本

1972年10月から1979年3月まで
放送期間1972年10月7日 - 1979年3月31日
放送時間土曜20:00 - 20:55→20:54
または土曜23:45 - 24:39
放送枠日本テレビ系列プロレス番組枠
放送分55→54分

1979年4月から1985年9月まで
放送期間1979年4月7日 - 1985年9月
放送時間土曜17:30 - 18:24
放送枠日本テレビ系列プロレス番組枠
放送分54分

1985年10月から1988年3月まで
放送期間1985年10月19日 - 1988年3月26日
放送時間土曜19:00 - 19:54
または土曜15時台か16時台
放送枠日本テレビ系列プロレス番組枠
放送分54分

1988年4月から1990年4月まで
放送期間1988年4月3日 - 1990年3月25日
放送時間日曜22:33 - 23:26
放送枠日本テレビ系列プロレス番組枠
放送分53分

1990年4月から2000年3月まで
放送期間1990年4月1日 - 2000年3月19日
放送時間日曜24:30 - 25:25
→ 土曜26:35 - 27:05
→ 日曜24:30 - 25:00
→ 日曜24:55 - 25:25
放送枠日本テレビ系列プロレス番組枠
放送分54分→30分

2000年4月から2000年6月まで
放送期間2000年4月 - 2000年6月21日
放送時間水曜25:45 - 26:15
放送枠日本テレビ系列プロレス番組枠
放送分30分
特記事項:
1994年4月から30分に短縮。
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『全日本プロレス中継』(ぜんにほんプロレスちゅうけい)は1972年10月7日から2000年6月21日まで日本テレビで放映されたプロレス実況中継番組。全日本プロレスの試合を中継していた。

番組の放送時間が1時間から30分間に縮小したことに伴い、タイトル表記が『全日本プロレス中継30』となった時期もあったが、後に放送時間は30分間のままで、従前の『全日本プロレス中継』に戻った。

オープニングテーマは『日本テレビスポーツのテーマ』。
番組の歴史
前史

元々日本テレビでは1953年の開局以来、力道山ジャイアント馬場アントニオ猪木らを中心とした日本プロレスの試合を、『三菱ダイヤモンドアワー日本プロレス中継』などのタイトルで放送していた。その後NET(現:テレビ朝日)もプロレス中継に参入することになるが、日本プロレスは先行の日本テレビに配慮して「馬場及び坂口征二の試合を放映しない」「ワールド大リーグ戦の試合を放映しない」「インターナショナルヘビー級選手権試合およびインターナショナルタッグ選手権試合を放送しない」ことを条件にして参入を認め、1969年より2局放送体制となるが、人気No.1の馬場の試合を中継できないNETは『NETワールドプロレスリング』の番組名で、No.2である猪木や大木金太郎らを中心とした番組を組んだ。

だが同番組におけるメインイベンターであった猪木が、1971年12月に日本プロレスを除名され、日本プロレスはNET向けのエースとして猪木に代わって坂口を起用するも、猪木時代のような視聴率をとれずに低迷、それを理由にNETテレビが馬場の試合中継を日本プロレスに要求し、馬場の試合を放送すれば放映権料をアップするが、拒否すれば放送を打ち切るという強硬手段に出る。

かねてから日本テレビは馬場に対して「あなたがNETに出たら、ウチと日本プロレスの関係は終わりだ。NETには出ないでくれ」と念を押しており、日本プロレスに対しても、馬場の試合をNETでは放送しないよう警告していたが、それに対して「馬場の試合をNETで放送しても、日本テレビ自体での視聴率も高いので、日本テレビが放送を打ち切ることはないだろう」「強行突破してしまえば、日本テレビも文句を言えまい」という意見が日本プロレスの役員会で大勢を占め、その結果、日本プロレス役員会は役員の一人であった馬場の反対を押し切ってNETにおける馬場の試合中継を認め、反対した馬場も「会社が決めたことだ。欠場だけは許されない」としてNETへの登場を決断し、NET中継をつなぎ止めるため、最終的に日本プロレスはNETの要求を飲むことを決め、1972年4月3日放送の『NETワールドプロレスリング』新潟市体育館大会の実況生中継に馬場を出場させた。

当初の約束を破り、なし崩し的にNETで放送された坂口の試合やワールドリーグ公式戦は渋々認めた日本テレビだが、馬場の試合中継だけは行わないように警告したにもかかわらず、試合中継を認めた日本プロレスの行為に、日本テレビと『日本プロレス中継』のスポンサーである三菱電機が激怒。契約更改を行わないまま、同年4月7日以降も『日本プロレス中継』を放送していた日本テレビは三菱電機との協議の末、同年5月15日の記者会見において同年5月12日放送分の東京都体育館大会(「第14回ワールドリーグ戦決勝戦」である馬場VSゴリラ・モンスーンなどを放送)をもって『日本プロレス中継』を打ち切ることを正式発表した(1972年5月19日以降は『日本プロレス選手権特集』として過去の名勝負集を同年7月14日まで放送)。こうして日本テレビは1972年3月31日限りで日本プロレスとの放送契約を解除し、放送契約は事実上NETとの独占契約となった。

NETテレビ中継への馬場登場直後から日本テレビは、原章プロデューサー(後に日本テレビ運動部長、福岡放送社長)が懇意だった猪木が旗揚げした新日本プロレスの中継放送開始を計画し、新日本プロレスも交渉に応じようとした。計画では、『日本プロレス中継』を打ち切った上で、1972年夏から新日本プロレス中継を開始する計画だった[1][2]が、最終的に日本テレビは三菱電機との協議の末、同年5月12日放送分を以って『日本プロレス中継』を打ち切り、1972年5月19日から7月14日までつなぎ番組として『日本プロレス選手権特集』を放送することにした[3]。『日本プロレス選手権特集』の後番組はドラマ『太陽にほえろ!』となったため(同時に1972年7月15日から日本テレビにおけるプロレス中継が初めて空白となった)、日本テレビにおける新日本プロレス中継放送計画は頓挫した。

しかし、プロレス中継の視聴率自体は高かったため、『日本プロレス中継』終了直後から当時の小林與三次社長が、日本プロレスやNETに極秘裏に馬場がエース格となる新団体を設立するという裏工作を指示し[4]、これを受けて馬場に接触し、馬場に日本プロレスからの独立と新団体設立並びに日本テレビでの中継を持ちかけ、「旗揚げに対しての資金は全て日本テレビが負担する」「放映権料も最大限用意する」「馬場がいる限り、プロレス人気が下火になっても放送は打ち切らない」等の好条件を提示した[5]

NETテレビ中継への自分の登場に反対していた馬場は、日プロ経営陣への不満もあって日本テレビの提案に同意し、1972年の「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」開幕前に最終合意に至った。馬場はNETテレビが金曜20時台でも日本プロレス中継(『NET日本プロレスリング中継』)を開始した翌日である1972年7月29日に赤坂プリンスホテルにおいて、「第1次サマー・ビッグ・シリーズ」終了(最終戦は8月18日に行われた宮城県石巻市中央広場大会)をもって日本プロレスを退団する記者会見を行った。会見で馬場は、「日本プロレス界は、力道山の熱意、正力松太郎読売新聞創設者の英断、三菱電機大久保社長の支援などにより、今日の隆盛を見るに至った。日本テレビの電波によって、今日の人気と地位を獲得できた。私馬場正平は、日本テレビに出るべく、日本プロレスを退団するに至った」「新団体を設立し、日本テレビのブラウン管に乗りたい」などと会見した[1]

馬場は同年9月9日、自身がエース兼社長を務める全日本プロレスの創立会見を行い、同月18日には旗揚げシリーズの概要が発表された[6]。外国人招聘ルートの確保に関しては、ロサンゼルスミスター・モトは当初「日プロと全日本の両方に選手を派遣してもいい」と馬場に伝えていたが、最終的に日本プロレスからの圧力と妨害工作により全日本へのブッキングを断った[7]。後に強固なパートナーシップを築くフリッツ・フォン・エリックテキサス東部(ダラス地区)のルートも、この時点では日本プロレスとの提携関係が続いていたため見送りすることとなった[7]。最終的にはアマリロ地区にマシオ駒大熊元司が遠征していた縁故もあり、当時NWA内で多大な発言力のあったドリー・ファンク・シニアのテキサス西部ルートを確保した[7]。駒から全日本プロレスの概要を聞かされたファンク・シニアは「俺が選手を送ってやろう。NWAのメンバーに入れてやると馬場に伝えろ」と答え、外国人選手のブッカーを買って出ており、すでに日本プロレスが加盟済みで「一つの地区に一人のプロモーター」が原則であるNWAのルールを変えてまで強引に馬場のNWAへの加盟を押し進めるなど全面的に協力している[7]。また、馬場のアメリカでの武者修行時代に構築された人脈もあり、馬場の親友であるブルーノ・サンマルチノも全面的な協力を約束し、そのラインでWWWFとも友好関係を築いた[8]。後にWWWFは新日本プロレスと業務提携を結び、全日本プロレスとは疎遠になるが、サンマルチノとの個人的な交流は続き、新日本プロレスとの提携後も新日本への出場を拒否し、全日本プロレスへ出場し続けている。

なお、新日本プロレス中継は東京12チャンネル(現:テレビ東京)における単発放送を経て、NETが1973年4月6日に『NET日本プロレス中継』を打ち切り、新日本中継に変更した上で『ワールドプロレスリング』に再改題して再スタートしている[1]
土曜20時枠時代

1972年10月、新番組『全日本プロレス中継』が毎週土曜日の20:00 - 20:55(1975年10月より20:00 - 20:54)に放送されることとなると同時に日本テレビにおけるプロレス中継が3カ月ぶりに復活した。当初は全国29局ネットで開始し、ネット局に関しても、『日本プロレス中継』を放送していた局の内、『日本プロレス中継』をもって日本テレビ系プロレス中継のネットを打ち切り、かつ『NET日本プロレスリング中継』も放送していた静岡放送TBS系列、本番組は1974年4月にテレビ静岡フジテレビ系列)で放送開始)と本番組開始直前に土曜20時台が日本テレビ同時ネット枠からNET同時ネット枠に変更された名古屋テレビ(当時は日本テレビ系列・NET系列、現在はテレビ朝日系列。これにより本番組は『NET日本プロレスリング中継』も放送していた中京テレビでの放送となった[注 1])以外の各局を引き継いだ。同時ネット局の数においても、『NET日本プロレスリング中継』への一元化によって同時ネット局が6局にまで減少した日本プロレス中継を圧倒することになった[注 2]

第1回(10月7日)当日の新聞に掲載されたキャッチコピーは「お待たせしました! リングの王者ジャイアント馬場日本テレビに再登場! いよいよ今夜8時」「18年の歴史を誇る日本テレビ全日本プロレス中継」[3][注 3]と謳われていたように、日本テレビにおける馬場の試合中継並びに、日本テレビにおけるプロレス実況中継が5か月ぶりに復活する事をアピールした。第1回(10月7日[注 1])は「海外遠征第一戦『G・馬場対ザ・シーク』」(1972年9月20日、ホノルル)、第2回(10月14日)は「G・馬場アメリカ転戦記」と題し、団体旗揚げ前の馬場が、アメリカ遠征で行った試合の模様(一部、馬場以外の所属選手も含む)を放映。第3回目となる10月21日の「ジャイアントシリーズ前夜祭」(東京都町田市体育館)の生中継から、正式に新団体の中継放送に入り、翌10月22日に行われた旗揚げ第1戦である「'72ジャイアント・シリーズ」開幕戦日大講堂大会は10月28日に録画中継された[9]。外国人選手は、馬場の人脈を利して一流外国人を招聘することになり、「'72ジャイアント・シリーズ」にはサンマルチノ、フレッド・ブラッシーテリー・ファンク、ドリー・ファンク・シニア、ダッチ・サベージなどを、次期シリーズの「'72ジャイアント・シリーズ第2弾」では、ザ・デストロイヤーアブドーラ・ザ・ブッチャーサイクロン・ネグロルーファス・ジョーンズなど、日本プロレスでの実績がある外国人選手を招聘。同時期に開催された日本プロレス「第3回NWAタッグ・リーグ戦」に参戦したワルドー・フォン・エリックダニー・ホッジネルソン・ロイヤル、次期シリーズの「'72インターナショナル選手権シリーズ」に参戦したジン・キニスキーボボ・ブラジルキラー・カール・コックスザ・ストンパーなどにも引けを取らないメンバーを揃えた。

創立初期は、国際プロレスとも協力関係を築き、日本陣営に国際プロレスから移籍したサンダー杉山ザ・デストロイヤーを参加させたり、国際プロレスの選手を出場させるなど、選手の拡充を図った。日本プロレスの興行をプロモートしていたプロモーターも、旗揚げ以前から全日本プロレスへ鞍替えしたプロモーターも少なくなく[10]、それ故に創立時から、本番組開始を境に弱体化が進行していた日本プロレスを尻目に、1973年3月までテレビ中継がなかった新日本プロレス同様に全国各地で興行を打つようになっていった。

1973年2月3日にはNWAの正式加盟が認められた[8]。日本陣営では、鶴田友美(ジャンボ鶴田)、天龍源一郎などといった、話題性のある大型新人を、積極的にデビューさせていった。1973年6月に同年4月に崩壊した日本プロレスの残党が合流した他、1974年3月には国際プロレス中継番組であった『TWWAプロレス中継』(TBS)を打ち切られた国際プロレスと正式に提携した。


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