D1 GRAND PRIXカテゴリドリフト
国・地域 日本(2000年 ー )
アメリカ(2003年 - 2006年)
ロシア(2014年 - 2018年)
中国(2016年 - 2018年)
フィリピン(2022年 - )
韓国(2023年 - )
タイ(2023年 - )
開始年2000年
最終
ドライバーズ
チャンピオン 藤野秀之
最終
チーム
チャンピオンTEAM TOYO TIRES DRIFT
公式サイトd1gp.co.jp
D1 GRAND PRIX(ディーワングランプリ)は、ドリフト走行の技術を競うモータースポーツの選手権である。通称は「D1グランプリ」「D1GP」。 「全日本プロドリフト選手権」の名称で2000年にスタートし、翌年からは「D1グランプリ」 (D1 GRAND PRIX) として開催されている。単に速さを競う一般的なモータースポーツとは異なり、ドリフト走行における迫力や芸術性をポイント化し競う。シリーズ戦(年間6-10戦)で争われ、現在では国内最高峰のドリフト競技のシリーズとなっている。2024年より、JAFの日本選手権にドリフト競技が加わったことにより正式名称は『JAF 日本ドリフト選手権 D1グランプリシリーズ』、シリーズ名は『グランツーリスモ D1グランプリシリーズ』となっている。 シリーズ戦には1台で走る「単走」と2台で走る「追走」の2種目が設定されており、各ラウンドで両種目の1位を決めるとともに、追走トーナメントにおいて最後まで勝ち上がった選手がそのラウンドの優勝者となる[1]。かつては審査員の目視を基に採点されていたが、2013年からGPSと角速度センサーを利用した[2]機械式採点システムのDOSS(D1 Original Scoring System)が単走で導入されており、2019年以降は追走でも使用されている。 下位カテゴリーとしてD1ライツ、さらにその下にD1ディビジョナルシリーズ(地方戦)が存在しており[1]、それらで好成績を収めた選手がD1グランプリにステップアップするケースも少なくない。また、同じくドリフト走行の競技として国内最高峰にあるフォーミュラ・ドリフト ジャパンと並行して参戦するドライバーも存在する。 「D1 GRAND PRIX」の名称の考案者は、シリーズを立ち上げた人物でもある元レーサーの土屋圭市と雑誌『OPTION』創始者の稲田大二郎である。「全日本プロドリフト選手権」のシリーズ化にあたり、ドリフト(Drift)の「D」・土屋圭市(ドリフトキング、Drift King)の「D」・(稲田)大二郎(Daijiro)の「D」という3つの「D」から頂点を目指すという意味で、「D1」と名付けられた[3]。 D1 GRAND PRIXの起源は、1995年に土屋圭市・稲田大二郎により開催された「ドリフト統一チャンピオン決定戦」である。当時の主要なドリコンであった「STCC」、「ドリコンGP」、「いかす走り屋チーム天国」(いか天)[注 1]の優秀選手が参加し、統一された審査基準の下でドリフトの腕前を競った[3]。これをきっかけとして、それまで存在しなかった「統一したルールによる、トップ選手によって競われるドリフト大会」という概念が生まれ、その後同様のコンテストが数度単発で開催された。 2000年、「全日本プロドリフト選手権」として初のプロドリフトイベントがエビスサーキットで開催され、優勝には50万円の賞金がかけられて行われた。それまでにも全国の強豪ドライバーを集めて優勝を競う単発のイベントは行われていたが、賞金をかけて行われたのはこの大会が初めてのことであった[4]。開催にあたっては「ドリフトがどれだけ上手くてもその先はない。だったらドリフトで飯を食えるように、プロ化にしよう」という意図があり、土屋曰く「最初のうちはOptionやビデオオプションでの仕事の斡旋も考えていたが、お金を払って見る価値が出来た」とのことである。 2001年、「D1 GRAND PRIX」の名称でこの年からシリーズが開催された。第1-3戦は観客を入れずビデオオプションの収録として行われていたが、第4戦エビスから観客を動員して開催されるようになった。 シリーズ設立当初はエビスや日光サーキット、備北ハイランドサーキット また、2001年時点では選手は皆プライベーターであり、ほとんどの選手がナンバープレート付きのマイカーを持ち込んで出走していた。しかし、翌2002年以降はチューニングパーツメーカー(ブリッツ・HKS・トラストなど)によるワークス体制での参戦[注 2]やチューニングショップ(トップシークレット・RE雨宮など)による参戦が本格的に始まり、それに合わせマシンも競技専用車両へと先鋭化していった[5]。 選手も、シリーズ初期は野村謙や谷口信輝、植尾勝浩、今村陽一など、いか天などのドリコンで活躍した選手が中心であったが、2000年代中盤になると川畑真人や斎藤太吾など、キャリアの初期からD1GPを中心として戦ってきた選手が頭角を現し、2000年代後半には横井昌志や松井有紀夫、末永直登など、D1ストリートリーガルからステップアップしてきた選手も現れた[5]。 2010年12月9日のD1コーポレーション取締役会において、稲田大二郎・土屋圭市両名がD1コーポレーション取締役を辞任し、今後の運営から離れることが表明された[7][8]。競技化を勧める両名と興業化を計るD1コーポレーション側で溝が生まれたことが原因とされる。稲田・土屋の二人は2011年に対抗イベントとしてドリフトマッスルを立ち上げた。「なるべくお金のかからない、腕だけで勝負できる大会」[9]を志向するドリフトマッスルに対し、D1GPはドリフト競技の国内トップカテゴリーとして、先鋭化したマシンによる大規模なモータースポーツイベントへの道を歩み始めた。 2012年にはそれまで審査員によって行われていた審査・採点に機械採点システムのDOSSが導入され、翌2013年からは単走の採点がDOSSのみとなる。
概要
歴史
D1グランプリの誕生
シリーズの拡大と新たな選手の台頭
ドリフト競技の国内最高峰として