全日本フィギュアスケート選手権大会大会概要
英語All Japan Figure Skating Championships
大会種国内選手権
創設年1930年(昭和5年)
主催日本スケート連盟
開催国 日本
会場日本
中継局フジテレビジョン
公式サイト公式サイト
全日本フィギュアスケート選手権大会(ぜんにほんフィギュアスケートせんしゅけんたいかい)は、日本スケート連盟が主催するフィギュアスケートの日本一を決定する選手権大会。 1922年(大正11年)、長野県・諏訪湖で日本初の日本スケート会主催の全日本競技会が開催され、1925年(大正14年)には学生による日本学生氷上競技選手権が開催された。1930年(昭和5年)に全日本スピード・フィギュアー・ホッケー選手権大会として第1回全日本フィギュアスケート選手権が開催された。第二次世界大戦による中止と終戦直後の未開催を挟み、1947年(昭和22年)から再び開催され現在に至る。 戦時中は第13回、第14回が中止となった。これは1941年(昭和16年)9月の全国大会停止令により今後は連盟主催として開催できず、加えて11月厚生省により神宮国民体育大会フィギュアスケート競技は除外されたため、神宮国民体育大会でもフィギュア競技会が開催できなかったためである。 終戦直後の第15回は、第1回国民体育大会と兼ねて実施された。続く第16-18回は第3-5回国民体育大会と同じ会場で続けて開催された。第20回は、日本スケート連盟内の紛争によって時期はずれの5月開催となり、参加者1名であったため流会となった[1]。 各種目の実施は、男子シングルは第1回、女子シングルは第6回、ペアは第21回、アイスダンスは第25回から始まった。開催時期は当初1月?4月に設定されていたが、1966年(昭和41年)から11月?1月に開催することになった。同年のみ経過措置として3月に第34回大会が、11月に第35回大会が開催された[2]。 第73回よりISUジャッジングシステムが導入された。 現在の参加資格は、男女シングル、ペア及びアイスダンスで開催年度の7月1日までに15歳に達していること、男女シングルはバッジテスト7級以上、アイスダンスはパートナーのいずれかがプレゴールド以上を保有している必要がある。ペアには制限はない[3]。ただし、15歳未満でもフィギュア委員会にて出場を認められた選手は参加資格を有する。 東北・北海道ブロック、関東ブロック、東京ブロック、中部ブロック、近畿ブロック、中四国・九州ブロックの6つのブロックで予選が行われ、各ブロックの上位選手と予選免除者はそれぞれ東日本ブロックと西日本ブロック大会へと進む。東日本ブロックと西日本ブロックの上位選手と予選免除者が本戦となる全日本フィギュアスケート選手権へ出場することができる。なお、前年の同大会で好成績を残した選手は予選が免除される。 本大会終了の翌日には全日本選手権と全日本ジュニア上位入賞者によるエキシビション『オールジャパン メダリスト・オン・アイス』が開催されており、ニチレイが特別協賛されている。またイベントは実行委員会と産経新聞社が主催し、日本スケート連盟が後援する。
概要
歴史
参加資格等
予選と本戦
メダリスト・オン・アイス
歴代表彰者(優勝・2位・3位)
男子シングル小林進
1930/1931(第2回)仙台市:五色沼老松一吉帯谷竜一小林進
1931/1932(第3回)下諏訪町:秋宮リンク佐藤金吾
1932/1933(第4回)東京市:山王ホテル片山敏一老松一吉長谷川次男
1933/1934(第5回)大阪市:歌舞伎座[注 1]片山敏一渡辺善次郎長谷川次男
1934/1935(第6回)東京市:芝浦スケート場
1935/1936(第7回)[注 3]東京市:芝浦スケート場[注 4]北川静二小林勝利倉橋新
1936/1937(第8回)東京市:芝浦スケート場[注 4]片山敏一渡辺善次郎長谷川次男
1937/1938(第9回)東京市:芝浦スケート場[注 4]片山敏一神田博小豆島藤丸
1938/1939(第10回)東京市:芝浦スケート場[注 4]神田博有坂隆祐小豆島藤丸
1939/1940(第11回)東京市:芝浦スケート場[注 4]有坂隆祐神田博小豆島藤丸
1940/1941(第12回)東京市:芝浦スケート場有坂隆祐酒井克己小豆島藤丸
1941/1942(第13回)戦時中のため中止
1942/1943(第14回)戦時中のため中止
1946/1947(第15回)八戸市:長根リンク有坂隆祐川島達次郎岩崎清