全日本ツーリングカー選手権_(1994年-1998年)
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全日本ツーリングカー選手権(ぜんにほんツーリングカーせんしゅけん、Japan Touring Car Championship 、JTCC)は、1994年(平成6年)から1998年(平成10年)の4年間日本で開催されていた自動車レースの1カテゴリー。
概要1997年シリーズ チャンピオンマシン
Castrol無限ACCORD (3X)

国際自動車連盟(FIA)による競技車両規定の変更(FIA・ツーリングカークラスII規定の新設)に伴い、1985年よりグループA規定の車両で争われた『全日本ツーリングカー選手権(JTC)』は、1994年からの開催に新たな展開を迎えた。

既にヨーロッパ圏内ではイギリスツーリングカー選手権(BTCC)に追従する形でクラスII規定を導入し人気を博していた事から、FIAはローカル・カテゴリーであったBTCCのレギュレーションを1993年に正式に国際レギュレーションとして導入する。さらに北米、南米、オーストラリアといった国々でもこの規定でレースが開催されていったことから、クラスIIへの移行は国際的な流れであったといえる。

1994年から始まった新シリーズの発表会において、英国に習った新たな競技略称としてJTCC(Japan Touring Car Championship)の名が発表され、それまでに行われていたグループA規定のJTC( Japan Touringcar Championship)と区別して表記されることとなった。また、初年度は競技名を「ニューツーリングカー」と呼んでいたが、1995年からはGr.ST「スーパーツーリングカー」に改称している。
レースの特徴

グループA時代のようなエンジン排気量によるクラス区分がなくなり、単一クラスのレースとなる。ベース車両が4輪、4座4ドア以上の量産車で、2L以下の自然吸気エンジン(同一メーカーなら別の車両のエンジンに載せ換えが可能)を車体前方に搭載した車両で行う。駆動方式により最低重量が決められ(初年度シーズンではFF車が950kg、FR車及びAWD車は1,050kgだったが、FF車の性能向上は目覚しくハンディ差は年毎に縮まっていった)、レブリミッターの装着によりエンジンの最高回転数を8,500rpmに制限する等、イコールコンディション化を図った。これによりサイドバイサイドのレースが展開され、この規定下による最大の見せ場となった。後にウエイトハンデ制なども取り入れるなどして同一車両・チームの独走をなくし、選手権獲得の行方を面白くする工夫も見られた。一方でグループAが500?600馬力であったのに対しノンターボのJTCCは300?350馬力程度しかなく、台数もクラス分けが無い分少なかったため、迫力不足であったことが指摘されている[1]

JTCが走行距離300?800kmの耐久レースであったのに対し、走行距離およそ100kmの2ヒート制スプリントレースで行われた。2ヒートのレース間にはインターバルが設けられ、短時間の中で行われるメカニックたちの車両整備も見所の一つであった。スプリントレースゆえの激しくぶつかり合いながらのサイドバイサイドや追い抜きが横行したため、スピンやコースアウトによる順位変動やアクシデントが日常茶飯事で、ドライバー同士の言い争いや喧嘩が散見された。

シリーズ開幕前にドライバーの中谷明彦は、1人1台のスプリント戦ではグループAと同じ台数がいてもドライバーの数が半分になることや、高橋国光土屋圭市のようなコンビで人気のあるドライバーたちが片手落ちになってしまうことを危惧していた[2]。また観戦したジャーナリストの御堀直嗣は、トップドライバー達による白熱のバトルに夢中になりつつも、短期戦故のぶつけ合いによるクラッシュで早々にスター選手たちが姿を消してしまうということの寂しさや、ドライバーたちが勝ちを焦るばかりでバトルを楽しむ余裕が無いことが観戦者目線でも伝わってきたことを指摘している[3]

JTCCはJTCと同じくワンメイクレース状態で終焉を迎えることになるが、JTCの最終戦インターTECが94,600人動員の大盛況で終わったのに対し、JTCCはスーパー耐久との併催で37,000人[4]という少々寂しい幕引きとなった。

結果的に市販車然とした大衆向けセダンのスプリントレースが受ける欧州[注釈 1][5]とは違い、レーシングカー然とした派手なスポーツクーペのレースの方が人気の日本では、コアなレースファンはともかく全体的な集客は今ひとつであった。本レースの消滅後、現在まで同じようなコンセプトのプロフェッショナルレースが日本で根付いていないのも、そうしたレース文化の違いを表しているといえる。
歴史
1994年(平成6年)

開催初年度の参戦メーカーはトヨタ日産ホンダマツダBMWボクスホール(シーズン途中でオペルに名称変更)等多数であった。

最終戦の富士スピードウェイインターTECでは、ランキングトップのトム・クリステンセンコロナ)、2番手のスティーブ・ソパー(BMW318i)、そして3番手の関谷正徳(コロナ)の順でレースが始まったが、第1レース(第17戦)でクリステンセンが入賞圏外に後退すると、ソパーもリタイヤを喫した。続く第2レース(第18戦)では追いすがるソパーに対し、チームメイトの鈴木亜久里の掩護もあって、関谷が逆転シリーズチャンピオンを獲得した。

チームタイトルは、名門・トヨタチームトムスとBTCCなどでも経験が豊富なBMWチームシュニッツァーの一騎討ちとなったが、トムスが同士討ちやマシントラブルに見舞われるのに対して、シュニッツァーはソパーをエースに、ヨアヒム・ヴィンケルホックレオポルド・プリンツ・フォン・バイエルンをサポート役に回す徹底したチームプレイが功を奏し、チームタイトルを獲得した。
1995年(平成7年)ホンダ・カストロール・無限・シビック(中子修)

車両カテゴリーの名称が「ニューツーリング」から、国際的な名称の「スーパーツーリング(Gr.ST)」に変更され、トヨタは、主力マシンをコロナからコロナエクシヴに変更した。

95年のレギュレーション改正ではフロントスポイラー、リアウィングといったエアロパーツに関して、元から付いている物以外に一種類に限り装着が可能となり、車体の空力性能が向上した。また、この年からレースをより接戦にするため、ウエイトハンディキャップ制が導入され、第1レースの1位に20kg、2位に10kgのウエイトが積まれるようになる。

最終戦の富士インターTECでは、ランキングトップに前年チャンピオンの関谷正徳(エクシヴ)、2番手がスティーブ・ソパー(BMW318i)で、しかも18ポイントもの差があり関谷には充分余裕がある状態で始まった。しかし第1レース(第15戦)では、関谷、トム・クリステンセン(エクシヴ)、そしてソパーのチームメイト、ヨアヒム・ヴィンケルホック(BMW318i)の3台がともに接触してリタイヤを喫したうえ、ソパーの優勝でポイント差はなくなった。仕切り直しの第2レース(第16戦)でも関谷が6位でレースを終えたのに対してソパーは2位でゴールし、逆転シリーズチャンピオンを獲得、前年の雪辱を果たした。チームタイトルもBMWチームシュニッツァーが2年連続で獲得して、ダブルタイトルを得ることとなったが、3年以内にチャンピオンを獲ることを目標としていたBMWチームシュニッツァーは、この年限りで撤退した。チャンピオン争いは2年連続でトヨタとBMWの争いとなったが、日産とオペルも善戦し、シリーズ3位はプリメーラ星野一義、次ぐシリーズ4位にはベクトラをドライブするアンソニー・レイドが入った。
1996年(平成8年).mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ホンダ・ジャックス・アコード(服部尚貴)日産・プリメーラ・ユニシアジェックス・カミノ(影山正彦)

それまで第1レースの結果が第2レースのスタートグリッドを決める方式だったが、この年から土曜日の二回の予選がそれぞれ第1レース・第2レースのスタートグリッドを決める方式に変更された。この年ホンダは、シビックフェリオから、より大きい車体のアコードに変更した。またニッサンもプリメーラをP10型ベースからP11型ベースへ変更した。

96年のレギュレーション改正ではウエイトハンディが1位に30kg、2位に20kg、3位に10kgに変更された。

前年チャンピオンのBMWチームシュニッツァーが不在な中、低いCd値でストレートの速さが武器のトヨタ・エクシヴに期待が集まっていたが、アコードも同様に空力特性に優れる上、コーナリングスピードの速さも備えており、あらゆるコースで強さを発揮した。しかしシーズンを通して、車両レギュレーションの解釈についての問題が絶えず、アコードはサスペンション形状に違反があるとして第4大会(美祢)を欠場し車両改修を行なった(実際には翌年用に開発を進めていたものを急遽前倒しして対応した)。チャンピオンの座はそのアコードを駆る服部尚貴中子修との間で争われ、さらに、最終戦でもホンダの連勝でレースを終えたにもかかわらず、他陣営からアンダーパネルの形状にクレームがつけられ服部(ムーンクラフト)、中子(無限)ともに失格の仮裁定を受けた。両チームは裁定を不服としてJAF審査委員会及び中央審査委員会へ提訴を繰り返したものの翌年4月に最終結審が言い渡され判定は覆らなかった。


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