全日本キックボクシング連盟
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新日本キックボクシング協会」とは異なります。
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出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2019年2月)


大言壮語的な記述になっています。(2009年8月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2019年2月)


言葉を濁した曖昧な記述になっています。(2009年8月)
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全日本キックボクシング連盟(ぜんにほんキックボクシングれんめい、All Japan Kickboxing Federation)は、日本にかつて存在したキックボクシング団体である。略称は「全日本キック」、「AJKF」。1987年結成、2009年解散。

マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟分裂して結成された。同団体と並び、日本におけるキックボクシング団体の“二強”として業界に君臨してきた。

本項では全日本キックボクシング協会も併せて記述する。
歴史
全日本キックボクシング協会

この節の加筆が望まれています。

「全日本キックボクシング協会」は、黒崎健時目白ジムなどが集まり1971年に結成された。当時参議院議員だった石原慎太郎をコミッショナーとして「全日本キックボクシングコミッション」も設けられ、11月5日に最初の王者を決定した。大沢昇藤原敏男・島三雄らを抱え、日本テレビ東京12チャンネルゴールデンタイムで中継され、1974年には沢村忠を擁する日本キックボクシング協会と交流戦も行われた[1]

日テレ・12chでの打ち切り後はフジテレビの深夜枠で放送。1981年に解散。
創設

全日本キックボクシング連盟(以下、全日本キック)は、1987年7月に創設された。創設の際、藤田眞が理事長となった(1996年まで)。相談役には、黒崎健時が就任した。ただし、黒崎は、自身の道場の選手を他団体に出場させていたことから、全日本キックとの関係は薄かったと考えられている。また、当時衆議院議員だった小沢一郎をコミッショナーとし、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟(以下、MA日本キック)が認定していた5階級の現役王者全員を引き抜いた。この時、王者だったのが、向山鉄也(ウェルター級)、斎藤京二(ライト級)、青山隆(フェザー級)、三島真一(バンタム級)、赤土公彦(フライ級)の5人であった。さらに、この全員の所属していたジムもMA日本キックを脱退した。なお、全日本キック結成後は、この5人の王者は自動的に全日本キックの王者として認定された。ジムの脱退については、当時、MA日本キックの幹部だった西川純(ニシカワジム会長)が扇動し、実際には金田敏男が主導していたと考えられている。全日本キック設立後、旗揚げ興行を行うまでに、AKIジム、ニシカワジム、光ジム、OGUNIジム、不動館(新拳会)、藤ジム、岩本ジム、大和ジムなどといったジムが加盟した。特に、AKIジムについては、かつて全日本マーシャルアーツ連盟の実体であったオールジャパンプロモーションであり、勇気道(のちの新空手)総本部である正心館でもあった。この創設について、総長に就任したのがフジテレビの元社員であることから、かつて存在していた「全日本キックボクシングコミッション」並びに「全日本キックボクシング協会」の復活・継承という意味を持つと考えられた。

1987年7月15日に旗揚げ興行を後楽園ホールにて行った。メインイベントは、ムエタイ五冠王のラクチャートと全日本キックのウェルター級王者として認定された向山鉄也との対戦だった。向山は、全日本キックの前身の団体である日本キックボクシング連盟やMA日本キックでも日本王座を獲得したことがある、当時の日本を代表する選手だった(引退後はキングジムの会長に就任)。

全日本キック設立後に、同団体の実質的な権限を握ったのは金田敏男だった。金田は他の興行会社での勤務歴が長く、興行に関しては経験が深かった。加えて、自身が専務を務めていた日照という会社(キックボクシングのジムも経営していた)に「日照エンタープライズ」という会社を作らせて、自らが社長に就任した。この会社は強力な興行会社(プロモーター)であったため、全日本キックの実体と目された。その後、金田は全日本キックの「代表」という役職を名乗るようになっていく。また、金田がかつて勤めていた会社の一つに「オールジャパンプロモーション」(かつて存在した全日本マーシャルアーツ連盟・AKIジム・正心館の実体)という興行会社があり、世界キックボクシング協会 (WKA)と提携していた。このコネは全日本キックに引き継がれ、当時全日本キックの理事長だった藤田眞は、WKAの副会長も兼任した。全日本キックは、日照エンタープライズの潤沢な資金と、WKAとの全面提携を生かして、これまで呼べなかった世界(オランダ、米国)のトップ級の選手を次々と日本に招聘し、それを売り物にした。この時招聘された選手にはモーリス・スミスロブ・カーマンピーター・スミット、アンドレ・マナートなどの選手がいた。スミスに関しては過去に全日本マーシャルアーツ連盟が招聘したことがあったが、スミットについてはキックボクシングの試合のために招聘したのは全日本キックが初めてだった。

やがて日照は日照エンタープライズから離れていった。そのため、日照エンタープライズは社名を「オールジャパンエンタープライズ」に改称した。1990年代に入ると、次のような試合が組まれた。代表的なものでは、1990年6月30日に日本武道館で行われた「INSPIRING WARS HEAT630」のチャンプア タイ)対デル・"アポロ"・クック アメリカ合衆国)、WKA世界ジュニアライトヘビー級王者決定戦のピーター・スミット(挑戦者/ オランダ)対ロブ・カーマン(王者/ オランダ)、佐竹雅昭 日本)対ドン・中矢・ニールセン アメリカ合衆国)。なお、この試合は佐竹が初めて完全なキックボクシングに挑んだ一戦だった。佐竹は執拗な反則攻撃(バッティング)を繰り返し、最後はブレイクが宣告された直後のパンチでKO勝ちしたため、当時の老舗の格闘技雑誌によって根底から批判された。ゴング格闘技は、この試合に関して長大な検証記事を載せた。また、1993年11月27日に東京ベイNKホールで行われた「EVOLUTION step8」のビタリ・クリチコ柳澤龍志船木誠勝対モーリス・スミス、日本フェザー級タイトルマッチ立嶋篤史(前王者)対前田憲作(現王者)などがある。この頃は、試合会場前列に松任谷由実が陣どり、選手の応援を熱心にしていた。ところで、全日本キックは当時スター選手だった立嶋篤史に1,000万円の年俸を与えていた。もっとも、実際に本人が受け取ったのはその5分の1程度であった。同じくスター選手の前田憲作は、1996年、現役トップのまま、俳優としてデビューし映画に主演した。この映画は格闘技を題材としたものでなく通常の学園物である。プロレスの第二次UWFリングスパンクラスに選手を貸し出したり、彼らプロレスラーを当連盟のリングにあげたりという連携もあった。


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