全学共闘会議
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この項目では、全学共闘会議(略称:全共闘)について説明しています。「全学連」と略称される組織については「全日本学生自治会総連合」をご覧ください。

全学共闘会議全共闘ゲバヘル
設立1965年?
設立者山本義隆
首領山本義隆
活動期間1965年? - 1969年
活動範囲日本全国
構成員数3000人前後?
主な活動無期限ストライキ、大学校舎の占領
著名人物山本義隆 (元全学共闘会議代表)
猪瀬直樹 (元信州大学全共闘議長)
塩崎恭久 (元新宿高校全共闘活動家)
仙谷由人 (元東京大学全共闘活動家)
坂本龍一 (元新宿高校全共闘活動家)
立松和平 (元早稲田大学全共闘活動家)
テリー伊藤 (元日本大学全共闘活動家)

全学共闘会議(ぜんがくきょうとうかいぎ)は、1968年昭和43年)から1969年(昭和44年)にかけて新左翼の学生らによって日本の各大学学生運動バリケードストライキ等、武力闘争として行われた際に、ブント三派全学連などが学部[注 1]セクトを超えた運動として組織した大学内の連合体、またはその総称。
概要

略して全共闘(ぜんきょうとう)。

全共闘は各大学等で結成されたため、その時期・目的・組織・運動方針などはそれぞれである。中でも日本大学の日大全共闘と東京大学の東大全共闘が有名で、後に全国全共闘も結成された。東大全共闘では「大学解体」・「自己否定」といった主張を掲げたとマスコミが伝え、広く流布した。「実力闘争」を前面に出し、デモでの機動隊との衝突では投石や「ゲバ棒」(ゲバルト棒)も使われた。特定の党派が自己の思想や方針を掲げる組織運動というよりは、大衆運動との側面があったともされる。

全共闘と最も対立したのは民青系全学連で、東大紛争でも全共闘が乱入する中、七学部代表団を主導して大学当局と確認書を作り終結させた他、入試中止で文部省が動いた際にはストライキ解除の実力行使を行い、これに全共闘も応戦したことで機動隊導入のきっかけとなった。また日大で全共闘と対立したのは、体育会系民族派系であった。
歴史
前史

大学当局をターゲットにした学生運動は、1949年の新制大学発足以前から始まっており、珍しいものではなかった。全共闘運動以前の学生運動は、授業放棄やピケットストライキなど、学生の生活擁護を目的としたものが主であり、大学側の譲歩を勝ち取るといった成功事例は珍しかった。

従来の学生自治会での多数決を行ってから行動をする方式では、戦闘的な戦術は多数派のノンポリ学生がついて来られないので否決されてしまうため、活動家学生のみによる「共闘会議」が各地で発足した[1]。全共闘運動においては、戦術として本館封鎖・バリケードストライキという実力行使を伴う闘いを行い、教官・職員の立ち入りを阻止する闘争方法に発展したことが特徴である。

以下は、おびただしい個別事例のうちのいくつかの例である。

お茶の水女子大学では、1965年9月22日から、寮規定改悪反対を訴えて全学無期限授業放棄に入った。しかし、学業放棄への反対もあり、9月30日の学生大会で授業放棄を解いた。

高崎経済大学(公立)では、1965年9月に、市側が財政難を理由に私学化を提案した。教授会はこれに反対し、学生も教授会を支持し、私学化は押しとどめられた。市側は、代わって授業料の大幅値上げを打ち出し、学生は授業料値上げ反対闘争を組んだが、デモ隊を撮影した写真などを根拠に処分者が相次いだ。これは映画『圧殺の森』に詳しい。

東京商船大学(現・東京海洋大学)では、1965年(昭和40年)11月5日から11月26日ストライキを打ったが、26日の学生大会でストライキを解いた。

早稲田大学には学館規定改定闘争があったが、1965年12月に大幅な学費値上げの発表があり、一気に反対闘争が盛り上がる。1966年1月18日の第一法学部を皮切りに、第一商学部第一政経学部第一理工学部第一文学部と、次々にストライキに突入し、入学試験は機動隊がキャンパスに駐留する形で行われた。6月に理工学部でストライキの解除があり、最後の文学部のストライキ解除で闘争が終息した。

明治大学では、1966年11月24日朝から、学費値上げ反対を訴え、和泉校舎で無期限ストライキに入る。しかし、敗北のままストライキは終わった(明大紛争)。

慶應義塾大学では、1968年米軍からの医学部への資金流入問題をめぐり全学バリケード封鎖となったが、留年問題などから、学生投票により、封鎖解除となった。

中央大学では、1966年12月8日、学生会館の管理運営権を巡り、4000人の学生の参加を得て、大学側と話し合いを持つ。しかし、要求が受け入れられず、夜になってバリケードストライキに入る。団交が重ねられ、全共闘運動史上稀有なことに要求がほぼ呑まれて、25日にバリストが解除される。

国際基督教大学では、1963年授業料値上げ反対闘争、1966年生協設立闘争があり、1966年5月には能研テストによる入試代替と、受験料の1.67倍値上げ反対闘争が組まれる。本館占拠により目標を達するも退かず63名の処分者を生んだ。

学生運動の発端は、各大学においてそれぞれ異なっているが、一般に「全共闘」と呼ばれるのは以下の日大・東大における全共闘運動である。
発端

1968年5月、日本大学東京国税局家宅捜索により、22億円の使途不明金が発覚した。当時日大では時の理事長・古田重二良の方針により学生自治会が認められていなかったが、この使途不明金問題をきっかけに、大学当局に対する学生の不満が爆発し、5月23日神田三崎町経済学部前で、日大初めてのデモとなる「二百メートル・デモ」が行われた。

5月27日には秋田明大を議長として日本大学全学共闘会議(日大全共闘)が結成された。理事会は全共闘の要求に応じ、9月30日に学生と当局の交渉の場として「全学集会」を両国講堂で開催した。この集会には3万5千人もの学生が参加し、全共闘側は「大衆団交」(労働組合法における団体交渉になぞらえた表現)と呼んだ。12時間の交渉の末、当局は経理公開や理事全員の退陣など全共闘側の要求を一度は受け入れた。

しかし翌日になり佐藤栄作首相が「大衆団交は常識を逸脱している」[2] と横やりをいれ、当局側も学生との約束を撤回した。両国講堂には日本刀を持った体育会系の学生が乱入し、直後の機動隊突入では全共闘側学生は拍手で迎えたが、機動隊は逆に全共闘側学生のみを鎮圧した。これにより日大闘争は沈静化するが、一部の学生は東大紛争などへ合流した。

日大は沈静化後、府中市白糸台の仮校舎で授業を再開。この府中校舎、10数棟のバラック校舎鉄条網で囲まれ、周囲は空き地と畑。敷地入り口には職員がいて立入に際しては学生証の提示を求められ「日大アウシュビッツ」と呼ばれた。詳細は「日大紛争」を参照

東京大学では、医学部インターン問題を巡る学生への不当処分を発端として、大学当局に対する抗議活動が高まり、安田講堂を一時占拠するなどしたあと、7月5日には山本義隆を議長として東大全共闘が結成された。東大全共闘も日大と同様に大学内の建物をバリケード封鎖し、当局との「大衆団交」を要求した。詳細は「東大紛争」を参照
展開

全共闘運動は、1968年初めから1969年にかけて、東大・日大闘争に併行して自然発生的に、「燎原の火のように」[3] 全国の大学へ広がった。

全共闘は、はじめは各大学個別の問題(学費問題等)を扱う組織・運動として各大学の学生自治会の枠を超え、結成された。その後大学当局の硬直した対応や政府機動隊の介入を経験する中で、次第に全学化し、「大学と学生・研究者のあり方を見直すという大学の理念と学問の主体をめぐる運動」となっていった[4]。そして、現在の大学は、「帝国主義的管理に組み込まれた「教育工場」としてあり、教授会はその管理秩序を担う「権力の末端機構」となっている。


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