全国高校囲碁選手権大会
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全国高校囲碁選手権大会(ぜんこくこうこういごせんしゅけんたいかい)は、高校生の囲碁部等での活動の成果を競いあう大会である。

各都道府県大会と全国大会からなるが、ここでは全国大会について述べる。全国大会は男子、女子の団体戦、個人戦から成る。1965年昭和40年)から開催され、1977年昭和52年)から発展的解消して現在の形となった。全国大会の開催は7月下旬である。

団体戦は1チーム3名で、各都道府県男女各1チーム(東京のみ各2)が出場。個人戦は各都道府県男女各2名(東京は各4)が出場する(他に前年度優勝などによる増枠がある)。それぞれ8位までが入賞。
旧・全国高校囲碁選手権大会

1965年昭和40年)から1976年昭和51年)までの12回開催。

主催 (第1-5回)昭和薬科大学、(第6-12回)日本棋院

現・全国高校囲碁選手権大会

1977年昭和52年)から開催。

主催 日本棋院、全国高等学校囲碁連盟、(33 - )全国高等学校文化連盟囲碁専門部
(29 - 32回)毎日新聞社

後援 文化庁、(30 - )文部科学省

協賛(29 - )ANA、(34 - )富士ゼロックス
(第1 - x回)日本航空花王石鹸(19 - 21回)NTT、隆祥産業(現レクザム)(22 - 23回)東日本ハウス(24回)カルビー(25回)NTTドコモ(30 - 33回)日能研

協力
(25 - 30回)カルビー株式会社(28 - 31回)シチズンTIC株式会社(テイ・アイ・シイ・シチズン)(30- 33回)伊藤園

30回より、文部科学省が後援することになり、文部科学大臣杯が冠せられる様になった。

29回から32回まで、毎日新聞社が(全国大会に限って)主催者に名を連ねていたため、男女個人優勝者に高校本因坊の称号と高校本因坊杯が贈られていた。

日本航空、花王石鹸が協賛していたころは、TBSをキー局に全国41局(JNN加盟局のほか加盟局以外の局や独立局も含む)ネットで個人戦と団体戦の決勝をそれぞれ1時間にまとめてテレビで放送していた[1][2][3][4]

大会方式

旧選手権、現1-27回は団体戦・個人戦とも完全な
トーナメント方式。

28回から、全国大会での対局の機会を増やすという視点から予選リーグ(35回から「1次リーグ」に名称変更)方式に改められている。出場選手は4-6人(団体戦でも4-6校)に分けられ、その中で1次リーグを3局打ち、1位になった選手または学校が決勝トーナメントに出場する。個人は16、団体戦は8の決勝トーナメント進出枠がある。

主な選手・強豪高

個人戦の過去の優勝者には、後にプロ棋士となった、上村陽生、岩田一、尾越一郎、石倉昇、下地玄昭、井上綾子、高野英樹坂井秀至、久保秀夫、山森忠直白石勇一高津昌昭下坂美織、田中伸幸、大谷直輝がいる。プロ棋士の中村邦子は1969年に日本棋院東京本院で院生になっており、1970年優勝者の中村邦子(大阪・三国丘)とは同姓同名の別人である[5][6]。団体戦の最多優勝回数は新旧合わせて、男子は麻布高校灘高校が各8回、女子では藤村女子高が17回を数える。連覇記録は団体では、男子は灘の5連覇、女子は藤村女子の6連覇。個人では、男子は高津昌昭の3連覇(27-29回)、女子は2連覇。
優勝チーム・優勝者
旧全国高校囲碁選手権大会

回次年度団体男子団体女子個人男子個人女子
11965
立川高校(東京)なし上村陽生(宮崎・宮崎商)田口光代(東京・青葉学園)
21966井草高校(東京)藤園女子高(富山)岩田一(神奈川・追浜)田口光代(東京・青葉学園)
31967大泉学園高(東京)藤園女子高(富山)小森祥嗣(福岡・小倉)大坪久美子(富山・藤園女子)
41968広島学院高校(広島)済美高校(愛媛)中村信夫(神奈川・戸塚)坂口香織(神奈川・聖母女学院)
51969春日部高校(埼玉)済美高校(愛媛)大石行男(埼玉・春日部)坂口香織(神奈川・聖母女学院)
61970春日部高校(埼玉)藤村女子高(東京)尾越一郎(大分・臼杵)中村邦子(大阪・三国丘
71971那覇高校(沖縄)済美高校(愛媛)石倉昇(東京・麻布)遠藤啓子(埼玉・細田学園女子


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