この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。ラジオ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、CDなどでの販売や公式なアーカイブなど常に参照可能な状態のネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。
全国歌謡ベストテン
ジャンル音楽チャート番組(邦楽)
放送方式録音
放送期間1962年7月 - 2002年12月
放送回数2100
放送局文化放送(1962年 - 1997年)
KBS京都(1997年 - 2002年)
ネットワーク火曜会(1962年 - 1997年)
パーソナリティ歴代パーソナリティを参照
特記事項:
文化放送による全国向け放送は1997年10月に終了。以降はKBS京都が自社制作のローカル番組として継続。
放送回数は文化放送・火曜会版は全1833回、KBS京都版は全267回。
テンプレートを表示
『全国歌謡ベストテン』(ぜんこくかようベストテン)は、文化放送が制作し、同局と火曜会加盟AM局による全国ネットで1962年7月から1997年10月4日までの約35年間にわたり1833回放送され、さらにその後KBS京都にて自社製作ローカル番組として1997年10月から2002年12月29日までの約6年間にわたり267回放送されたランキング形式の邦楽専門音楽番組。 電話リクエスト、はがきリクエスト、シングルレコード(CD)売上、ベストテン選定委員会の順位の4要素でランキングを決定していた。 4要素によるランキング決定、4要素を発表(読み上げ)してからの総合ベストテン発表といった番組構成は、『ザ・ベストテン』(TBSテレビ)や『不二家歌謡ベストテン』(ニッポン放送)、『ベストテンほっかいどう』(北海道放送=HBCラジオ)など後発のカウントダウン番組に大きな影響を与えたとされる。とはいえ、生放送が行われたのは火曜会版終了直前の半年間だけで、パーソナリティに外部のタレントを起用した後期には一度に2週分の録音を行う「2本録り」が行われ、他のランキング番組に比べて速報性が著しく欠けていた。このため、文化放送は後に独自のランキング番組として『決定!全日本歌謡選抜』→『SUPER COUNTDOWN 50』→『スパカン!』を立ち上げ、他の火曜会加盟局も速報性と独自性を兼ね備えた自社番組を次々と立ち上げていった。詳細は「決定!全日本歌謡選抜#概要」および「ザ・ベストテン#ランキング・出演データ」を参照「ベストテンほっかいどう#昼番組時代」および「スパカン!#TOYOTA SUPER COUNTDOWN 50時代」も参照 放送時間は各局バラバラで、30分、45分、50分、60分で放送されていた局もあった。短縮版では、流す曲数を変えたり曲の長さやコーナーを削ったりして対応していた。山陰放送では「角兵衛のGo Go パープル」が放送される週は30分、されない週は60分で放送されていた。 火曜会に非加盟の山陽放送(現:RSK山陽放送)でも放送されていた時期がある[1]。一方、中京広域圏ではネットがなかったが、「不二家歌謡ベストテン」と「決定!全日本歌謡選抜」(企画ネット)はいずれも東海ラジオで放送されていた。 オープニング・エンディングの曲はメキシコ民謡の「ラ・ゴロンドリーナ」[2]。 「北は北海道から南は沖縄まで、全国民間放送31社の集計による全国歌謡ベストテン!! あなたが歩く人生の小路に小さく咲く花のように、咲いては消える歌の数々。北から南から、あなたの1枚の葉書が、電話リクエストが、そして全国民放31社の第一線の音楽ディレクターが、音楽評論家が、全国から集められたレコードの売り上げが…。それら火曜会全ての資料を基に、巨大なコンピュータがはじき出した、最も充実した、最も信頼できる。動く、動く!! 全国歌謡ベストテン!!」 文化放送が1976年(昭和51年)4月改編で『歌謡選抜』を立ち上げた後も、外部のタレントである高島忠夫を司会に投入したり、『歌謡選抜』と基本的に異なるランキングを作成したりするなどの策が行われ、1980年代に開始したニッポン放送の裏番組『全国歌謡ヒット速報』を7年間で終了に追い込むなど高い存在感を示してきたが、平成に入る頃から『歌謡選抜』以上に内容の陳腐化・構成のマンネリ化が進んだ。 また同じ土曜日昼間の放送で構成もほぼ同様だったTOKYO FM『コーセー化粧品歌謡ベスト10』(現・『COUNTDOWN JAPAN』)を、JFNは加盟全局フルネットとし、当時新たに開局したJFN加盟の県域FM局も対象となり、当番組と同様全国放送になった。このため、1990年(平成2年)10月改編で、『歌謡選抜』が『SUPER COUNTDOWN 50』にリニューアルすると、次の1991年(平成3年)4月改編で、歴代最長の14年間司会を務めた高島が降板。関根勤が新たな司会者に就任したが、この頃には文化放送でスポンサーが頻繁に交代しており、次第に番組の立ち位置が不安定となっていった。 この頃首都圏では、1989年の開局と同時にスタートしたbayfm『パワカン』(現・『POWER COUNTDOWN REAL』)が土曜日午後に移動してきて競合となる。 1994年(平成6年)4月改編では、『SCD50』を後輩の斉藤一美に譲った文化放送アナウンサー竹内靖夫が転入してくるが、平成不況で文化放送でもスポンサーが離れ、全編PT枠となった。その上同じ土曜深夜に放送されていた『さだまさしのセイ!ヤング』の打ち切りに伴って後継の『(有) さだまさし大世界社』が移動してきた関係で、1970年以来となる日曜朝の放送に変更となった。 1996年(平成8年)10月改編で、司会が竹内の8年後輩にあたる太田英明に交代するが、ご意見番格だった伊藤強が降板し、長年当番組の売りの一つだった格調の高さが失われた。 そして1997年(平成9年)10月改編で、文化放送は『SCD50』に一本化して当番組独自のランキング作成を取りやめることになり、火曜会加盟の地方局でも直前の金曜日に放送された『SCD50』の上位10曲をそのまま紹介する録音番組『SUPER COUNTDOWN 10』に移行して、文化放送・火曜会版の放送は終了した。文化放送・火曜会版の最終回の1位は、GLAYの『HOWEVER』だった。 しかしこの動きに火曜会加盟局のKBS京都が反発し、翌週から自社製作のローカル番組として再スタート。放送回数も文化放送時代からの通しでカウントされ、2000年(平成12年)に通算2000回目の総合ランキングを発行。2002年(平成14年)12月29日の最終回は「第2100回」として放送された。KBS京都版の最終回の1位は、CHEMISTRYの『It Takes Two』だった。
概要
オープニングの挨拶
番組後期の展開、そして終了へ
歴代パーソナリティ
Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef