全国三部会
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1789年に開かれた三部会

三部会(さんぶかい)は、通常は全国三部会(フランス語: Etats generaux、エタ・ジェネロ)を指し、これはフランス国内の三つの身分の代表者が重要議題を議論する場として、中世から近世にかけて存在した身分制議会のことである。他にも地方三部会(州三部会:Etats provinciaux、エタ・プロヴァンショ)もあった。全国三部会は全三身分会議[1]とも日本語訳される。以下、単に「三部会」という。
概要

三と同質のものである[2]

1302年、フランス王フィリップ4世が、ローマ教皇ボニファティウス8世と争った際に(アナーニ事件参照)、王側が国民の支持を得るために、パリノートルダム大聖堂に各身分の代表を招集したのが最初とされる。三つの身分はそれぞれ、第一身分である聖職者、第二身分である貴族、そして第三身分である平民で構成される。身分毎に各1票の議決権を有していた[1]。王国のさまざまな問題について議論が行われたが、主たる議題は課税に関するものであった。

15世紀以降、絶対王政が確立され始めると三部会の意義が薄れ、1615年以降は召集されなかった[注釈 1]ルイ16世の時代になるとフランスは財政破綻に瀕し、特権階級への課税を図るがパリ高等法院の抵抗に遭い、彼らの要求する三部会の招集を認めた[3]1789年5月5日、約170年ぶりに全国三部会が開催された。だが、議決形式を巡って三部会はすぐに行き詰まり[4]、事態が紛糾する中で第三身分が中心となった国民議会に変革し、遂にフランス革命を誘引した。このため、1789年が最後の三部会となった。
全国三部会の歴史
中世の三部会

1302年、フランス王権の拡大は聖俗封建領主と特権諸都市の代表(事実上の封建領主)からなる大会議の開催につながった[2]。この機関には先例があり、特権都市の代表はしばしば会議を持っており、そしてフィリップ3世の時代に貴族と聖職者の会議があり、二つの身分は別個に審議を行っていた[2]

フィリップ4世は教皇ボニファティウス8世との紛争(アナーニ事件参照)に際し、国内の支持を取り付けるべく1302年4月10日パリノートルダム大聖堂で三身分合同会議を開催した[5]。これが三部会の始まりとされている。国王に加えて最高国務会議もこの会議を望み、彼は三身分(聖職者、貴族、平民)からこの重大な危機に関する助言を受けた。1302年三部会の公開状(招集状)はM・ジョルジュ・ピコのコレクション"Documents inedits pour servir a l'histoire de Franceに収録されている。同じ治世期にその後も幾度かテンプル騎士団廃止問題の審議[6]や特別補助金(subside)を承認して国王に援助を与える三部会が開催されている。特別補助金は三部会開催の最も頻繁な動機となった[2]

1337年百年戦争が勃発するとフィリップ6世ジャン2世がたびたび三部会を招集して戦費のための特別補助金を受けている[7]1356年ポワティエの戦いでジャン2世がイングランドの捕虜になると王太子シャルルは対応策として三部会を招集した[7]。この三部会でパリ商人頭(パリ市長)エティエンヌ・マルセルが議会制政治の雛型的な顧問会議による統治を要求して紛糾し、パリで反乱が発生した[8]。王太子はパリを脱出し、マルセルに対抗する別の三部会を招集して支持を取り付け反乱を鎮圧している。

百年戦争の危機は三部会を利し、三部会は投票だけでなく代表を通じて税の管轄権と管理運営を支配した。シャルル7世の治世前半には三部会はほぼ毎年招集され、特別補助金の投票を忠実に行った[2]。だが、戦争が終わると三部会は疲弊と平和への渇望のために最も重要な権利である財政に関する権限を放棄してしまった[2]

ルイ11世の死後に開催された1484年三部会では三身分の代表たちは課税を定期的に認可する権利を取り戻すことを望み一致して努力した。彼らはタイユ税の総額を減らすとともに2年だけの採決した。彼らは2年間の期限が切れる前に再び三部会を開催することを国王に要求し、確約を得ることさえした[9]。だが、約束は守られず、1560年まで三部会が開催された記録はない[2]。そのため、以後76年間の空白期ができることになり、この間、歴代国王はあらゆる手段を使って王権の拡大を行っている[2]

この空白期間には名望家たちを専門家として招集した名士会が三部会に代わる諸身分の代表としての役割を果たしている[10]
近世の三部会カトリーヌ・ド・メディシス

三部会は王家の資金の欠乏とカトリックプロテスタントユグノー)との対立により16世紀後半に復活した[2]アンリ2世の崩御後に実権を握った母后カトリーヌ・ド・メディシス1560年にオルレアン三部会を招集して摂政指名を受けるとともに、宗教融和策を図った[11]。翌1561年にはポワシーポントワーズでの三部会が招集され、聖職者層に圧力をかけて財政負担を了承させることに成功したが(ポワシー協定)、カトリックのプロテスタントとの会談は失敗に終わった(ポワシー会談)[12]

ユグノー戦争中にアンリ3世によって招集された1576年ブロワ三部会では国王はカトリック同盟の要求を受け入れユグノーとの和平協定を破棄している[13]


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