全呉
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全j

右大司馬・左軍師・徐州牧・銭唐侯
出生建安3年(198年
揚州呉郡銭唐県
死去赤烏12年(249年
?音Quan Cong
子?
主君孫権
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全 j(ぜん そう、198年?[1] - 249年?)は、中国後漢時代末期から、三国時代にかけての武将・政治家。は子?。揚州呉郡銭唐県の人。父は全柔。妻は孫権の娘の孫魯班(全公主)。子は全緒全奇全懌全呉。孫は全?全静全儀。従子は全端全翩全緝。族子は全尚。族孫は全紀全皇后。一族に全煕。『三国志』呉志に伝がある。
経歴
若き日

父の全柔は霊帝の時代に孝廉に推挙され、尚書郎右丞となったが、董卓の乱で朝廷が乱れると官職を捨て故郷に戻った。故郷の揚州でも別駕従事に推挙され、さらに詔勅により会稽東部都尉に任命された。孫策が挙兵し呉郡に兵を進めると、父は真っ先にその配下となり、孫策の推挙により丹陽都尉に任命された。引き続き孫権にも仕え、孫権が車騎将軍に任命されるとその長史となり、桂陽太守まで昇ったという。

この時、全jは父の命令で桂陽から呉郡に米を運んで売却する任務を負ったが、全jはその米を民に数千石程施した。父は怒ったが、全jが士人が苦しむのを見かねたためだと謝ったのを見て、かえって子の非凡さを認識した。戦乱を避けて中原の戦乱から逃れた数百豪族に、全jは家財を傾けて援助した事から、全jの名は遠方にも鳴り響いたという。

その後、孫権に仕えて奮威校尉に任命され、1000人の兵士を率いて山越討伐に従事し、募兵して兵士1万を得た。牛渚に駐屯する事になり、官位はやがて偏将軍まで昇進した。

建安15年(210年)、顧邵陸績と一時呉郡に滞在していた?統と交際し、その知己を得ている[2][3]
頭角を現す

建安24年(219年)、劉備軍の関羽が北上し、曹操軍の曹仁が守備する樊城を包囲すると(樊城の戦い)、全jは関羽討伐の計略を上疏した。この時、孫権が既に呂蒙と関羽攻略の計画を立てていたため、事が漏れるのを恐れて上表を無視したが、関羽攻略後、公安において開いた祝宴で、全jは孫権から「今日の勝利はあなたの手柄でもある」と声をかけられた。陽華亭侯に封じられた。

夷陵の戦い直後に、孫権が兵を歴陽に駐屯させると、曹休は5州の軍勢を率いて歴陽へ侵攻した。襲撃で呉の辺境軍を破ると、同時に別働隊に横江を渡らせ、蕪湖の軍営数千家を焼いた。これを見た全jが横江を固守して臨時に敵と戦い、魏軍を撃ち返し、敵味方とも死傷者が多かった。

黄武元年(222年)、曹丕は曹休に命じて張遼・臧覇・賈逵ら26軍余りを指揮監督して洞口に出撃させ、呂範の指揮下で徐盛らと共に防い、多くの軍営が近接して設けられた(洞口の戦い)。魏軍が軽船によって略奪をしかけてくるため、全jはつねに武装をして、警戒を怠ることがなかった。そうするうちに、曹丕は数千人に長江中央の中洲を渡るよう命じたが、全jに撃破された。その後、徐盛と共に敵の臧覇を追撃して尹礼の首級と数百の敵兵を斬り、魏軍を撃破したという戦果を挙げた。この功績により綏南将軍となり、銭唐侯に封じられた。

銭唐において賊の彭式が略奪を働くと、周魴を銭唐県の相に起用し鎮圧させた[4]

黄武4年(225年)、仮節を与えられ、九江太守に任命された。

黄武5年(226年)、丹陽・会稽・呉の三郡の情勢が不穏であったため、その対策のため孫権は10県を分割して東安郡を新設した[5]。全jはその東安郡の太守に任命された。全jは賞罰を明確にし、山越に降伏を呼びかけて、1万余人の山越を帰順させた。役所が富春に置かれ[6]、また太守の任務を解かれて戻る時、故郷の銭唐に立ち寄り、先祖の慰霊の祭りを膨大な財力により盛大に行なったという[7]

黄武7年(228年)、孫権は魏の曹休を計略により誘き出し、これを迎撃した。全jは陸遜の統率の下で3万の兵を率いて軍の右翼を担い(左翼は朱桓)、石亭において曹休を大いに破った(石亭の戦い)。
呉の重臣へ

黄龍元年(229年)、衛将軍・左護軍・徐州牧に任命された。さらに孫権の娘であった孫魯班を与えられ、その娘婿になっている。彼女との間に全呉を儲けている。全jの待遇は、張昭劉基の遺族と同等であったという(「劉?伝」)。

黄龍2年(230年)、孫権は衛温諸葛直に命じ、珠香E夷州に軍を進め住民を連行させようとした[5]。全jは、異域の土地の風土は毒気を含み、疫病が発生して伝染する恐れがあり、多くの利益を求めることはできないと諌めた。孫権は、この意見を聞かなかったので、軍を送って一年経つと、士卒たちの中で疫病により死者が九割にも達し、孫権はこれを後悔した。

この年、魏から隠蕃が間諜として呉に投降し、呉の大臣を離間させ謀反に導こうと計画し、ひとかどの人物たちと親交を結び、全jをはじめとした多くの人物が隠蕃に心を寄せて尊重した。しかし謀反の計画が発覚して、隠蕃は逃亡しようとして失敗し、逮捕されて陰謀に加わった仲間について尋問されたが、隠蕃は何も答えないまま処刑された[8]

また、孫権が子の孫登に軍を率いさせ出征させようとした事があった。群臣達が誰もこれを諌めようとしなかったが、全jだけは密かに孫権に諫言した。孫権が即座に孫登に引き返させると、人々は全jを国家の節義を守った者として称賛したという[9]

嘉禾2年(233年)、歩兵と騎兵5万を率いて六安を討伐した。逃走した六安の住民を捕らえようとする諸将を戒めた。

全jは朱桓と作戦をめぐって口論となった。全jが、孫権の命令で作戦に参与していた胡綜に責任を擦り付けたところ、朱桓の怒りは胡綜に向けられ、この怒りにより帳士が殺された。朱桓も一時孫権の下に召喚される事件となった[10]

赤烏2年(239年)、諸葛瑾歩?らが中心となり、周瑜の子の周胤を復帰させようとする動きがあった。全jが朱然とともにこれに同調すると孫権の心も動いたが、周胤が既に死去した。全jはなおも、周瑜の従兄弟の周峻の子である周護という人物を推挙し、周護が孫権の意に沿わない人物であったため、これも実現しなかった[11]

赤烏4年(241年)、全jは大都督に昇進した[12]。同年、魏の揚州の拠点である寿春に侵攻し、芍陂の堤防を決壊させ、兵糧庫を焼き住民を捕虜にした。この戦いは同時に荊州方面において、朱然らに魏の樊城を包囲させ、諸葛瑾らに柤中を占領させるという大規模な作戦であったが、蜀漢の協力も得られず、全jらは魏の王?との会戦の中、中郎将の秦晃と一緒に千余人を斬るという戦果を挙げた。しかし孫礼と王?等が秦晃以下十数将校を斬り、秦晃軍を攻め落とした。魏軍の将兵も大半が死傷してしまい、その戦地へ駐屯した。4月、全j達は既に敗走したものの、張休顧承(顧邵の子)・顧譚等がなおも奮戦して敵を押し止めた。5月、皇太子の孫登が死去すると、戦の末に全緒と全端は王凌等を反撃して破り、魏軍を退却させた。翌6月に呉軍は総撤退した(芍陂の役)。

ところが、戦後の恩賞は張休・顧承に厚く、全氏一族に薄かった。張休・顧譚・顧承(顧邵の子)と、全端(全jの兄の子)ら全氏一族は、先の芍陂の役の恩賞を巡り対立した。全寄と一緒に顧譚らの事を孫権に弾劾し、交州への流罪に追い込んだという[13]
二宮事件


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