全ドイツ労働者協会(ぜんドイツろうどうしゃきょうかい、ドイツ語: Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein,略称ADAV)は、1863年5月23日にフェルディナント・ラッサールがドイツの労働運動指導のために創設したドイツ初の労働者政党。1875年にはマルクス系の社会主義政党ドイツ社会民主労働者党(SDAP,「アイゼナハ派」)と合同してドイツ社会民主党(SPD)の前身たるドイツ社会主義労働者党(SAP)を創設した。この経緯のためドイツ社民党では全ドイツ労働者協会の創設日1863年5月23日を自党の創設日と見做している[1]。「全ドイツ労働者協会」[2]の訳語の他、「全ドイツ労働者同盟」[3]と訳されることもある。 1862年8月25日にプロイセン王国・ベルリンで開かれた労働者集会でロンドン万博に派遣された労働者の報告を聞くため「全ドイツ労働者大会」を開催しようという提案がなされた。10月7日の労働者集会で全ドイツ労働者大会準備委員会が設置され、カジミール・アウグスト・アイヒラー
歴史
全ドイツ労働者大会の開催準備
一方ライプツィヒでもフリードリヒ・ヴィルヘルム・フリッチュ
(ドイツ語版)やユリウス・ファールタイヒ(ドイツ語版)を中心に独自の労働者組織が立ち上げられており(ライプツィヒ委員会)、ベルリン委員会のアイヒラーの親ビスマルク的な方針(ブルジョワ的反対派ドイツ進歩党を労働運動から排除してビスマルクの庇護を受ける方針)と対立を深めた。シュルツはベルリン委員会に対して全ドイツ労働者大会の創設準備は徹底的な準備の上で進めるよう要求し、結局ベルリン委員会は11月2日の集会において全ドイツ労働者大会の開催を延期するとともに大会開催準備の仔細をライプツィヒ委員会に委ねることを決議した[5]。ライプツィヒ中央委員会は11月22日にザクセン王国内閣に対して流産した11月大会に与えられていた開催許可の延期を請願した[6]。この頃、労働者の間ではフェルディナント・ラッサールの『労働者綱領』が話題になっていた[7]。ラッサールはこの本の発行によって検察から起訴されて裁判にかけられていたが、全ドイツ労働者大会の準備を進めるライプツィヒ中央委員会の2人の議長ファールタイヒとオットー・ダマー(ドイツ語版)は、ラッサールの裁判を傍聴してラッサールの演説に感心した[8]。ファールタイヒとダマーは1863年2月にラッサールのベルリンの自宅を訪問し、労働運動方針について指導を求めた。ラッサールはその返事として1863年3月1日に『公開回答書(ドイツ語版)』を出版した[9]。
その中でラッサールは進歩党は信用ならないので進歩党から独立した労働運動を組織する必要があると論じた[10]。また労働者を「賃金の鉄則」[注釈 1]から解放するため労働者階級自らを企業家にする必要があるとした。具体的には労働者の自由な同盟と国家の援助によって企業体「生産組合」を結成させて賃金と企業利得を一致させることで「賃金の鉄則」から離れて労働者階級の状況を改善させることができると唱えた[11][12]。この生産組合においては労働者は毎週慣習に従った賃金を受けつつ、年末には営業収益の分配を受けることになる[13]。国家は定款の認可と業績確保のための介入を行うが、国家にこのような強力な干渉を行わせるには、国民が自ら選んだ立法府の存在、つまり普通選挙が不可欠であるとする[14][13]。そして普通選挙を求める合法的運動を行うために労働者を「全ドイツ労働者協会」として組織する必要があると結論した[15]。
以上を趣旨とするラッサールの『公開答弁書』は、3月17日のライプツィヒ中央委員会で採択され、つづく3月24日のオデオンでの全国労働者会議でも採択され、これを基にして全ドイツ労働者協会を結成するための新委員会創設が決議された[16]。ラッサールはライプツィヒ以外にも支持を広げるべく東奔西走して演説して支持を拡大していった[17]。
全ドイツ労働者協会の創設(ドイツ語版)、ケルン、エルバーフェルト、デュッセルドルフ、バーメン(ドイツ語版)、ゾーリンゲン、フランクフルト、マインツの労働者代表が集まり、ラッサールが起草した綱領を採択のうえ、ラッサールを会長とする全ドイツ労働者協会を発足させることが決議された[18][2]。
協会規約の第一条は協会の目的を「平和的及び合法的手段によって、なかんずく大衆の確信の獲得を通じて普通平等直接選挙を獲得することとし、この選挙法こそドイツ労働者階級の社会的利益を十分に代表し、社会の階級対立を真に除去することができる唯一の手段である」と定めている[2]。また協会の組織については次のように定めている。協会の執行部である幹部会は会長と24名の委員によって構成され、トップである会長は総会での絶対多数で選出し、任期は最初のみ5年、二回目以降は1年。会長は緊急指令を出すことができるが、3か月以内に幹部会の承認を得なければならない。幹部会は地域組織の代表者を任免する権限を有する。総会は毎年1回開かねばならず、場所と日時は会長が決定する。幹部会の過半数もしくは協会員の6分の1以上の要求があった時には会長は6週間以内に総会を開かねばならない。規約の変更は協会設立後3年後からでき、総会の3分の2の賛成の決議により行われる[2]。
会長に大きな権限があるのが特徴であり、他の幹部会委員による会長権力への制限は大したことはなかった。彼らは全ドイツにちらばっていて、そのことで行動能力を大きく制限されていたためである[19]。これについてラッサールは結成式の数日前に「誰が会長になるにしても、その権限は独裁的であるべきだ。でなければ事は運ばないだろう。集団討議はブルジョワジーに任せておけばよい」と述べている[3]。 初代会長にはラッサールが就任し、日常業務を取り扱う幹部会委員の書記にはファールタイヒが就任した。ラッサールは主にベルリンで、ファールタイヒはライプツィヒで協会の拡大のために熱心に活動した[19]。ラッサールは10万人の協会員の確保を目指していたが、彼の生存中は4600人を超えなかった。その内訳は多くがアメリカ南北戦争の影響で痛めつけられたライン地方の織物労働者たちで、素朴な人柄のプロテスタントたちだった[20]。
ラッサールの指導