入鹿池
1987年度(昭和62年)に撮影された国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
入鹿池(いるかいけ)は、愛知県犬山市の入鹿、飛騨木曽川国定公園内にある人工の農業用ため池。2010年(平成22年)3月25日に農林水産省のため池百選に選定され[1]、2015年(平成27年)には国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産にも登録された。 香川県の仲多度郡まんのう町にある満濃池と全国一二を争う規模であり、農業用の人工ため池としては稀有な大きさである。犬山市やその南に位置する愛知県小牧市、西に位置する丹羽郡の町へ灌漑用水がのびている。 池の周囲を北は今井山、南西は本宮山・尾張富士・白山の尾張三山が囲み、池畔には博物館明治村がある。また、ボート、ワカサギ釣りも楽しめる観光地でもある。池の周囲には、尾張パークウェイ、県道16号、県道49号などが通る。
概要
基礎データ
形式 - 土堰堤
堤高 - 26.9m
堤長 - 120.0m
周囲 - 約16km
貯水量 - 15,187,786m3(満水時、転倒ゲート起立時の貯水量は16,810,863m3)
満水面積 - 152.1ha
灌漑面積 - 1,369町
水源 - 五条川[2]、成沢川
歴史
前史御囲堤建造以前の木曽八流の様子(緑は木曽川本川および主要派川)
尾張国と美濃国の境の木曽川は、昔は鵜沼川・広野川・境川・尾張川などと呼ばれていた。木曽川と呼ばれるようになったのは、その流路を大きく変えた、天正以降とみられる。
木曽川は度々氾濫し、尾張の人々を苦しめていた。そこで、徳川家康に建策し、これに堤を造ったのが伊奈忠次である。慶長14年(1609年)、伊奈は御囲堤(おかこいづつみ)と呼ばれる約50kmの連続堤を築き、これによって治水を行った。
当時、木曽川には一之枝川・二之枝川・三之枝川と呼ばれる支流があったが、この工事により、全て廃川となった。しかし、この工事でも木曽川の治水は完璧ではなく、薩摩藩士による宝暦治水を経て、工事の集大成はオランダ人技師ヨハニス・デ・レーケを中心として行われた明治の木曾三川分流まで待たねばならなかった(木曽川の治水については、木曽川#近代河川工事を参照のこと)。
伊奈による御囲堤の工事は、木曽川の水利を封じ込めてしまう面もあった。そこで、新たに木曽川から取水する用水路を整備する必要が出来、大江用水・般若用水・木津用水などの用水網が造成された。
大江用水は以前から存在していたが、御囲堤のために、新たに杁(いり、閘門・樋門のこと)を設けた。取水場所は大野村(現一宮市)であったが、誰も杁の作成法を知らなかった。そのため、治水技術の先進国であった山城国に一宮(愛知県一宮市)の大工平田(もしくは原田)与左衛門・平四郎兄弟が派遣された。この兄弟は後に入鹿池造成に貢献した。 当時は新田開発が盛んで、ため池の築造もよく行われていた。ため池は用水路の不足分を補うための物であり、用水源としてのため池は、洪積台地などの高位面といった限られた環境で必要とされた。 のちに入鹿池が潤すことになる楽田原・青山原・小牧台地は高台にあり、低地であった他の尾張東北部は木曾川から取水する各用水路のお陰で農地整備が充分に行われていたが、これらでは、水源が雨水に由来する規模の小さいため池であり、そのため、田畑のない一面の野原であった。 ここに新田開発をしよう、という事業の一環として、入鹿池が築造された。入鹿池を、新田開発の主水源に位置付けた。寛永3年(1626年)の旱害で水争議
入鹿池築造
主にこの事業に従事した人々がおり、彼らは後に入鹿六人衆と呼ばれた。即ち、小牧村の江崎善左衛門・上末村の落合新八郎と鈴木久兵衛・田楽村の鈴木作右衛門・村中村の丹羽又助(又兵衛)・外坪村の舟橋七兵衛(仁左衛門)の6人である。(下記の「入鹿六人衆」参照)彼らはため池を造成するにはどこがよいか相談の末、丹羽郡入鹿村にある銚子の口をせき止める計画を立てた。
入鹿村は成沢川(今井川)・荒田川(小木川)・奥入鹿川といった諸流が流れ込む谷間で、尾張富士・羽黒山・奥入鹿山・大山といった山々に囲まれていた。諸流はこの谷間で1つにまとまり、五条川(幼川)となって南に流れる。この谷の出口が「銚子の口」と呼ばれる所であった。
つまり、江崎善左衛門を筆頭とする入鹿六人衆の考えは、この銚子の口をせき止めて、入鹿村の谷にため池を造ろう、というものであった。村1つを潰す池は、今までにない前代未聞の物で、これほどの大規模な物は、他に、讃岐の満濃池しかない。そんな物を作成しようと言うのだから、既に彼ら農民・浪人(牢人)の手に負える話ではなくなっていた。そこで、入鹿村を含む犬山を統治する犬山藩に請願し、尾張藩に開発願を提出することとなった。当時の犬山藩主成瀬隼人正正虎は尾張藩の付家老でもあり、彼の進言により、入鹿池の築造は尾張藩の事業となった。
尾張藩は入鹿村の村民に対し、家長(間口)一間につき金一両を払い、転居させた。立ち退き先として、まだ開発されていない荒地や、池の畔が充てられた。彼らが移転した先は、新たに入鹿出新田と名づけられた。(下記の「入鹿出新田」参照) 1632年(寛永9年)に、本格的に始まった工事は難航した。せき止める水量が多く、距離も長く、折角築いた堤も崩れてしまうからである。彼らは為す術なく、大野杁の工事の場合と同じく、河内国に技術を求めた。そして派遣されて来たのが甚九郎であった。 甚九郎は堤防作りに長けており、巧に土を積み上げた。ここで棚築き(たなきづき)と呼ばれる技術が使われた。堤の築きたい所に油の浸みた木の橋を渡し、その上に燃料の枯れ枝・松葉、土や石を載せる。そして木橋を燃やし土を落とす。 こうして寛永10年(1633年)2月、ついに甚九郎は96間(約175m)の大堤を完成させた。これを百間堤(ひゃっけんづつみ)というが、彼の功績を称え河内屋堤(かわちやづつみ)とも呼ばれている。築堤に使用した土の量は総じて490,000立方メートルであった。 甚九郎は褒美に土地を与えられた。その荒地は河内屋新田(かわちやしんでん)と名づけられたが、甚九郎は見事開墾し、村高は114石となった。河内屋新田は現在でいうと、小牧市北西部の端に位置する地域である。 杁(いり、閘門・樋門のこと)の設置には大野杁の実績がある一宮の大工原田兄弟が当たった。しかし、実績があるとは言っても、入鹿池の杁には大野杁より更に巨大なものが必要であった。尾張藩の協力で40間(約73m)の杁堤も出来、苦労して杁は完成された。
工事の概要
百間堤
杁
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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