人口82,450人、面積89.79km²、人口密度918人/km²。(2024年4月1日、推計人口)
以下の3町を含む。 上記の3町以外では、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。高麗郡から編入された地域は当該項目を参照。 以下の地域は隣接する郡から当郡に編入されている。 以下の地域は当郡から隣接する郡に編入されている。 7世紀ごろに武蔵国の郡として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている[2](所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある。またこれらの遺跡は古代の駅家跡であると見る意見もある)。716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置。この際に入間郡域の西側の一部を高麗郡域に当てたものと見られる。高麗郡は律令制下では小郡に分類され、二郷のみであったものの、中世以降高麗郡域が東側に拡大し、江戸時代には入間川が入間郡と高麗郡の境界となっていた。また758年、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。その場所が後に新羅郡、更に新座郡となる。同郡の郡域は入間郡の東辺の一部を割いて設けたものと見られ、郡内は志木郷と余戸のみの小郡であった。833年、多摩郡との境に悲田処が設けられた。中世以降、「入間路」は鎌倉街道上道の本道となった。
三芳町(みよしまち)
毛呂山町(もろやままち)
越生町(おごせまち)
郡域
川越市、所沢市、飯能市、狭山市、入間市、富士見市、坂戸市、鶴ヶ島市、日高市、ふじみ野市、東京都瑞穂町の北東部
比企郡 → 入間郡 : 川越市大字中老袋、鹿飼、上老袋、東本宿、下老袋および芳野台一 - 三丁目の一部(旧植木村)
秩父郡 → 入間郡 : 飯能市大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元(旧吾野村)、上名栗、下名栗(旧名栗村)
入間郡 → 北足立郡 : 志木市大字宗岡および上宗岡一 - 五丁目、中宗岡一 - 五丁目、下宗岡一 - 四丁目(旧宗岡村)、富士見市大字水子、針ヶ谷および針ヶ谷一・二丁目、水谷一・二丁目、水谷東一 - 三丁目、東みずほ台一 - 四丁目、西みずほ台一 - 三丁目、榎町(旧水谷村)
入間郡 → 西多摩郡 : 東京都瑞穂町大字二本木の第二区・第三区・第四区の全域と第十区の一部、および狭山台を除く地区(旧元狭山村)
古代から近世まで
古地名を遺名地とし、その一帯に比定されている。
大家(おほやけ)
不詳。坂戸市森戸
郡家
郡衙所在地と考えられるが不詳。川越市久下戸を遺名地とする説、狭山市入間川(かつては単に入間村と呼んでいたとされる)を郡衙所在地と推定する説(風土記稿)がある。
高階(たかしな)
不詳。越生町・毛呂山町の一帯に比定する説、所沢市山口に比定する説、川越市高島
安刀
不詳。所沢市北野・久米の一帯に比定する説、川越市上戸・霞ヶ関の一帯に比定する説、坂戸市粟生田・上吉田・赤尾の一帯に比定する説がある。東秩父村安戸を遺名地とする説もあるが、比企郡を挟んで距離があり難がある。
山田(やまた)
川越市山田から大仙波にかけての一帯に比定されている。