入間郡
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埼玉県入間郡の範囲(1.三芳町 2.毛呂山町 3.越生町 水色:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入された区域[1]

入間郡(いるまぐん)は、埼玉県武蔵国)の

人口82,450人、面積89.79km²、人口密度918人/km²。(2024年4月1日、推計人口

以下の3町を含む。

三芳町(みよしまち)

毛呂山町(もろやままち)

越生町(おごせまち)

郡域

上記の3町以外では、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。高麗郡から編入された地域は当該項目を参照。

川越市所沢市飯能市狭山市入間市富士見市坂戸市鶴ヶ島市日高市ふじみ野市東京都瑞穂町の北東部 

以下の地域は隣接する郡から当郡に編入されている。

比企郡 → 入間郡 : 川越市大字中老袋、鹿飼、上老袋、東本宿、下老袋および芳野台一 - 三丁目の一部(旧植木村

秩父郡 → 入間郡 : 飯能市大字坂石、坂石町分、南、南川、北川、高山、坂元(旧吾野村)、上名栗、下名栗(旧名栗村

以下の地域は当郡から隣接する郡に編入されている。

入間郡 → 北足立郡志木市大字宗岡および上宗岡一 - 五丁目、中宗岡一 - 五丁目、下宗岡一 - 四丁目(旧宗岡村)、富士見市大字水子、針ヶ谷および針ヶ谷一・二丁目、水谷一・二丁目、水谷東一 - 三丁目、東みずほ台一 - 四丁目、西みずほ台一 - 三丁目、榎町(旧水谷村

入間郡 → 西多摩郡 : 東京都瑞穂町大字二本木の第二区・第三区・第四区の全域と第十区の一部、および狭山台を除く地区(旧元狭山村

古代から近世まで

7世紀ごろに武蔵国として成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが、古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている[2]所沢市坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある。またこれらの遺跡は古代の駅家跡であると見る意見もある)。716年朝廷駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置。この際に入間郡域の西側の一部を高麗郡域に当てたものと見られる。高麗郡は律令制下では小郡に分類され、二のみであったものの、中世以降高麗郡域が東側に拡大し、江戸時代には入間川が入間郡と高麗郡の境界となっていた。また758年、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。その場所が後に新羅郡、更に新座郡となる。同郡の郡域は入間郡の東辺の一部を割いて設けたものと見られ、郡内は志木郷と余戸のみの小郡であった。833年多摩郡との境に悲田処が設けられた。中世以降、「入間路」は鎌倉街道上道の本道となった。
古地名

和名類聚抄に6郷および郡家郷と余戸郷が記されている。比定は日本歴史地名大系による[3]
麻羽(あさは)
坂戸市浅羽を遺名地とし、その一帯に比定されている。
大家(おほやけ)
不詳。坂戸市森戸にかつてあった大在家村を遺名地とする説(風土記稿)があり、それによって明治期に大家村と命名されている。ほかにふじみ野市から富士見市にかけてに比定する説、越生町大谷との関連を見る説がある。『万葉集』「東歌」に「入間道の大家が原のいはゐづら ひかばぬるぬる吾にな絶えそね」がある。
郡家
郡衙所在地と考えられるが不詳。川越市久下戸を遺名地とする説、狭山市入間川(かつては単に入間村と呼んでいたとされる)を郡衙所在地と推定する説(風土記稿)がある。
高階(たかしな)
不詳。越生町・毛呂山町の一帯に比定する説、所沢市山口に比定する説、川越市高島を遺称地とする説がある。なお高階村(現・川越市)は高階郷の地とする伝承により明治期に命名されたもの。
安刀
不詳。所沢市北野久米の一帯に比定する説、川越市上戸・霞ヶ関の一帯に比定する説、坂戸市粟生田・上吉田・赤尾の一帯に比定する説がある。東秩父村安戸を遺名地とする説もあるが、比企郡を挟んで距離があり難がある。
山田(やまた)
川越市山田から大仙波にかけての一帯に比定されている。川越市山田は直接的な遺名地ではなく、中世の山田荘にちなんだ明治期の命名である。
廣瀬(ひろせ)
狭山市上広瀬および下広瀬を遺名地とし、狭山市から飯能市にかけてに比定されている。近世には高麗郡に位置している。
余戸
不詳。坂戸市横沼・小沼・赤尾の一帯に比定する説、狭山市の一部とする説がある。
近代以降
近代以降の沿革

旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。幕府領は松村忠四郎支配所、江川太郎左衛門支配所(韮山代官所)、木村飛騨守支配所が管轄。下記のほか、川越城下17町(江戸町、鍛冶町、上松江町、川越、喜多町、行伝寺門前町、堺町、志義町、志多町、高沢町、多賀町、本町、南町、宮ノ下、妙養寺門前町、養寿院門前町、蓮馨寺門前町)が存在したが、川越町1町として数える。(2町256村)
幕末の知行

知行村数村名
幕府領幕府領(松村)37村萱方新田、駒寺野新田、勘六新田、所沢村、大岱村、北秋津村、上安松村、●下安松村、牛沼村、下新井村、神谷新田、平塚新田、堀金新田、北永井村、南永井村、上富村、亀ヶ谷村、本郷村、城村、●越生村、黒岩村、成瀬村、津久根村、大満村、上谷村、加佐志村、三ツ木村(現狭山市)、南畑新田、下南畑村、上南畑村、●氷川村、●堀之内村(現所沢市山口)[4]、打越村、北岩岡村、北中村、●扇町屋村、善蔵新田
幕府領(木村)1村中神村
旗本領68村大在家村、森戸新田、厚川村、●多和目村、上浅羽村、●四日市場村、欠之上村、●久米村、上吉田村、片柳村、片柳新田、関間新田、戸口村、中里村、新堀村(現坂戸市)、堀籠村、善能寺村、小山村、竹之内村、北浅羽村、今西村、金田村、和田村(現坂戸市)、新ヶ谷村、●毛呂本郷、●小田谷村、●長瀬村、●前久保村、●滝野入村、阿諏訪村、●大谷木村、権現堂村、宿谷村、●川角村、●平山村、●馬場村、●堀込村、大久保村(現毛呂山町)、大類村、如意村、箕和田村、●西戸村、大谷村、●和田村(現越生町)、●小杉村、鹿下村、●南入曽村、岩崎村、●上山口村、●新堀村(現所沢市)、川辺村、大鐘村、●勝楽寺村、●北野村、山城村、柏原新田、●大袋村、●入間川村、●堀之内村(現所沢市堀之内)、●坊村[5]、荻原村[5]、中野村[5]、大森村[5]、矢寺村[5]、宮寺新田[5]、宮野新田[5]、高根村、駒形富士山村
幕府領(松村)・旗本領16村下浅羽村、●上新井村、坂ノ下村、大塚村(現坂戸市)、苦林村、上藤沢村、●下藤沢村、北入曽村、町谷村[6]、菩提木村、荒幡村、林村、●三ヶ島村、糀谷村、富士山栗原新田、●新久村
幕府領(江川)・旗本領3村●市場村、二本木村、●黒須村
幕府領(木村)・旗本領2村花ノ木村、下谷ヶ貫村
藩領武蔵川越藩2町
95村並木村、南田島村、牛子村、木野目村、小中居村、大中居村、高島村、八ツ島村、古谷上村、●古谷本郷、久下戸村、中富村、下富村、水野村、堀兼村、中新田村、上赤坂村、下赤坂村、上松原村、下松原村、中福村、今福村、大塚村(現川越市)、大塚新田、豊田新田、豊田本村、野田村、野田新田、新宿村、竹間沢村、大井町、苗間村、亀窪村、藤久保村、島田村、●塚越村、青木村、小沼村、横沼村、紺屋村、中小坂村、扇河岸、砂新田、砂村、上新河岸、寺尾村、下新河岸、藤馬村、福岡新田、大久保村(現富士見市)、鶴ケ岡村、川崎村、古市場村、渋井村、福岡村、中福岡村、池辺村、小ヶ谷村、小室村、今成村、上寺山村、中寺山村、下寺山村、福田村、網代村、志垂村、宿粒村、向小久保村、●坂戸村、粟生田村、府川村、高畠村、谷中村、石田本郷、菅間村、北田島村、石田村、鴨田村、青柳村、鶴間村、勝瀬村、水子村、上奥富村、大袋新田、小久保村、脇田村、東明寺村、寺井宿、寺井松郷、寺井伊佐沼、松郷、杉下村、川越町(川越城下17町)、●大仙波村、岸村、伊佐沼村、大仙波新田


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