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入鉄炮出女(いりてっぽうとでおんな)は、江戸時代における交通政策の1つ。入り鉄砲出女、入り鉄炮出女とも表記される。
目次
1 概要
2 武器類の取締
3 出女の取締
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
「入鉄炮出女」とは、江戸に持ち込まれる鉄炮(「入鉄炮」)と、江戸を出る女(「出女」)を取り締まった[1]。入鉄炮は江戸の治安の警備[疑問点 ? ノート
概要
関所の機能についての端的な表現として用いられた言葉である。江戸と地方を結ぶ関所を通過する際には、入鉄炮には老中が発行する鉄炮手形、出女には留守居が発行する女手形の携帯が義務付けられていた。
関所破りは重大な犯罪とされ、これを行おうとした者、あるいはそれを手引きしたものは磔などの厳罰が課された。もっとも、裏金や賄賂などで内々に関所を通過する者が後を絶えず、加えて文久の改革の参勤交代緩和によって、関所での手続自体が大幅に緩和されて「女手形」も簡素化された。そして慶応3年(1867年)8月には慶応の改革に伴って、手形が無くても関所の通行が許可されるようになり、事実上関所改めは廃止されることとなった。 鉄砲を関所の内側(江戸方面)に入れる際には、鉄炮手形を関所に提出させ、次に関所に備え付けられた「判鑑」にて、手形に記された老中の印鑑が真正であるかを確認し、更に鉄砲の所有者・挺数・玉目・出発地と目的地が手形の記載通りであるかを確かめた後に初めて通過を許した。また、鉄砲などを隠す空間を作りやすい長持の検査も厳重に行われた。江戸時代には東海道の新居関がその厳重な監視で知られていた。なお、意外にも江戸からの鉄砲の持ち出しについては簡単な検査ののちに通過を許したとされている。 房川渡中田(栗橋)関所(奥州街道・日光街道)における武器類の搬送は、天保8年(1837年)の「文化三寅年同四年夘六月迄、御関所御用書抜」[10]から鉄砲勘過規定の指示が残されている[11]。房川渡中田関所での鉄砲搬送方法は、老中裏印証文、留守居衆断状、勘定奉行証文、老中の宿継証文、そして持ち主・家来証文による5つの方法があった[12]。 女性が関所の外側(地方)に出る際には女手形を提出させ、次に関所に備え付けられた「判鑑」にて、手形に記された幕府留守居の印鑑が真正であるかを確認した。女手形は別名「御留守居証文」ともいい、関所を通るにあたって旅の目的や行き先、通る女性の人相、素性なども書き記されていた。箱根関の場合は特に厳しく、女の身体的特徴を専門に検分する人見女 [ヘルプ]
武器類の取締
出女の取締
脚注
^ a b 本間(1988)、637頁
参考文献
小学館『ビジュアル・ワイド江戸時代館』、小学館、2002年
本間清利「第5章 交通と流通」、『新編 埼玉県史 通史編3 近世T』、埼玉県、1988年、591-704頁。
関連項目
箱根関所(東海道)
木曽福島関所(中山道)
碓氷関所(中山道)
小仏関所(甲州街道)
房川渡中田関所(奥州街道・日光街道)
金町松戸関所(水戸街道)
小岩市川関所(佐倉道)
関川関所(北国街道)
更新日時:2017年9月27日(水)07:42
取得日時:2018/02/18 13:31