入来院定恒
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入来院 定恒(いりきいん さだつね、正徳3年12月30日1714年2月14日) - 元文3年12月27日1739年2月5日))は、薩摩藩(鹿児島藩)家臣、薩摩入来領主、入来院家当主。父は入来院明雅。母は川上久尚の娘。正室は平田佐充の娘。養子に入来院定勝。幼名は熊次郎。通称は右近、主馬。は重教、明昭、明喬、明之。
生涯

正徳3年(1713年)12月30日、入来院明雅の次男として生まれる。享保7年(1722年鹿児島城に登城し元服する。藩主島津継豊が加冠役、北郷久嘉が理髪役を務めた。以後、右近重教(しげのり)と名乗る。

享保10年(1725年)、明喬(あきたか)と改名する[1]。享保16年(1731年)、定火消となる。享保21年(1736年)、定恒と改名する。元文3年(1738年)12月27日没。享年26。法名は寒光院殿本性了性大居士。
参考文献

「入来村史」

脚注^ 将軍家世子徳川家重元服によるもの。江戸時代には、将軍の諱やその字の訓読みは藩主レベルでも将軍が下賜しない限り使用しない慣習があり、長州藩毛利重就桑名藩松平定猷のように、藩主でも改名や読みを変える場合があった。薩摩藩では将軍や藩主の本名の字を使ってならないという藩法がある(「薩藩政要録」参照)。これにより通字が「重」の字であった薩摩の渋谷氏一族(他には東郷重治(実満)一族など)はいっせいに改名している。なお、「明」の字は入来院家第2代当主の入来院明重(あきしげ)、「定」の字は初代当主(始祖)の入来院定心(じょうしん)にちなんだものである。


更新日時:2014年6月28日(土)17:10(日時は
取得日時:2014/08/28 11:03


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