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日本の政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}児玉(こだま) 源太郎(げんたろう).mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}兒玉 源太カ
生年月日1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日)
出生地日本・周防国都濃郡徳山横本町
(現:山口県周南市児玉町)
没年月日 (1906-07-23) 1906年7月23日(54歳没)
死没地 日本・東京府
前職第3師団長
称号 陸軍大将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
功一級金鵄勲章
子爵
配偶者児玉松子
子女一覧参照
秀雄(長男)
貞雄
児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体:兒玉 源太カ[注釈 1]、1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日) - 1906年(明治39年)7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家[1]。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。
経歴児玉源太郎生誕の地公園児玉文庫の石碑児玉源太郎の墓
嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁[注釈 2]で、長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石[2]。)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた[3]。幼名は百合若と名付けられ、長じて健、源太郎と改めた[4]。
嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か攘夷かで政論が盛んに行われるようになると、父・半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年)10月19日に憂悶の内に死去。この時の児玉はまだ5歳と幼かったため、浅見栄三郎の次男で半九郎の養子となっていた児玉次郎彦が児玉源太郎の姉・久子と婚姻し、婿養子として児玉家の家督を相続した。児玉は義兄の次郎彦に養育されることとなり、万延元年(1860年)に藩校の興譲館に入学し、文学を桜井魁園と本城清に、撃剣を神道無念流の小田劫右衛門と一刀流の浅見栄三郎に、槍術を大島流の浅見安之丞に学んだ。その他に父の友人の漢学者で教学院主を務めた島田蕃根にも師事している[4]。
元治元年(1864年)8月12日、義兄・次郎彦が対幕恭順派によって暗殺され、児玉家は一人半扶持に格下げされる。更に同年12月には横本町の邸宅も没収され、家名断絶となった[5]。児玉家には13歳の児玉、母・元子、姉の久子と信子、次郎彦と久子の間の子・文太郎が残され、生活は困窮した。しかし、児玉の母は家名を辱めないように努めつつ、児玉らの教育を怠らず、事あるごとに『曽我物語』を読み聞かせた。やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)に藩主・毛利元蕃から家名再興を許され、児玉は中小姓として25石の禄を与えられた[6]。