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凡例児島 高徳
児島高徳(菊池容斎画『前賢故実』より)
時代鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕不詳[1]
死没弘和2年/永徳2年11月24日(1382年12月29日)?、弘和3年/永徳3年(1383年)[2]?
改名高徳→志純(法名)、志純義晴大徳位(法号)
別名三郎、備後三郎
墓所兵庫県赤穂市坂越の妙見寺
群馬県邑楽郡大泉町古海の高徳寺
鳥取県米子市の凉善寺
官位従五位下、備後守、贈正四位、贈従三位
主君後醍醐天皇→後村上天皇→長慶天皇
氏族児島氏
父母父:頼宴?、和田範長?、母:和田範長の娘信夫(しのぶ)?
兄弟宴深、範重、高徳
妻正室:貞子(河野和道の三女)
子高秀、高久、高範、脇屋義治室
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児島 高徳(こじま たかのり、兒島 コ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。現在の岡山県倉敷市にあたる備前国児島郡林村出身[3]。従五位下・備後守を賜る。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。 元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。 江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者の一人と考えられている小島法師 高徳の出自に関する説は、大別して二つある。すなわち皇胤という説と、渡来系の出という説である。前者は、後鳥羽天皇の後という説と、宇多天皇の後という説に分かれ、後者は天之日矛の後裔という説である[4]。かつては、児島高徳なる人物の確実な資料とできるものは『太平記』ただ一つと言っても差し支えなく、高徳自体の存在が否定されてきたが、『太平記』の傍証となる史料などや、今木・大富・射越らの備前国邑久郡地方の土豪との一族であったことも考慮され、実在性に疑問を持つ人は少なくなっている。 承久の乱の折、後鳥羽上皇の第四皇子・冷泉宮頼仁親王が備前国児島へと配流となり、その孫の僧・頼宴の子という説[5]。五流尊瀧院は修験道の一流を担っており、延いては高徳を山伏勢力と結びつける説でもある。この説は、醍醐天皇の皇子・源允明(みなもと の すけあきら)の子・福慶
概要
出自
後鳥羽上皇後裔説
尚、五流尊瀧院内に現存する頼仁親王当時建立とされる石塔を昭和45年(1970年)に修繕・調査した際、舎利が発見された。これを受け、頼仁親王と弟の桜井宮覚仁親王が後鳥羽上皇一周忌の際に分骨を行い、これとともにこの石塔を建立したのではないか、という従来からの通説はより濃厚となった。しかし、高徳の出自と関連付け、これの後裔であるとするには到らない。 宇多天皇の皇子・敦慶親王が備前国児島に配流されたのち、その子・福慶から十四代目[6]・和田備後守範長の実子が児島高徳という説。この宇多天皇後裔の場合、氏は源氏となる。異説として、源頼朝に従った宇多源氏・佐々木盛綱末子・盛則の次男・重範(和田範長祖父説と同一か)を祖とする説もあるが、この説の場合は角川書店発刊『姓氏家系大辞典』が出典であり、同書の出典の不明瞭な点から説の根拠としてはやや信憑性に欠けることが言える。この異説には、佐々木加地氏一族の小島氏との混同ではないかとの指摘もある。 日本神話(『日本書紀』・『古事記』)に登場する新羅王の子・天之日矛の後裔という説[7]で、天之日矛は日本へ渡来し、但馬国へ土着し垂仁天皇の治世において帰化したと言われており、その途上において子孫を残したのではないかと思われる。 この天之日矛後裔説については異説が多く、播磨国飾磨の土着勢力であった天之日矛後裔三宅氏が、治承・寿永の乱の際に平氏に圧迫されて備前児島へ土着したというものもある。『西源院本太平記』では、この天之日矛の後裔・今木三郎備後守範長の実子が高徳であるとしている。この説の流れを汲んだ系図には、範長の祖父・重範は源頼朝に従い、功があって備前国児島の地頭職に就いたと記述されたものもある。
宇多天皇後裔説
天之日矛後裔説
生涯
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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