児島武彦
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哲学者の「小島威彦」とは別人です。

こじま たけひこ
兒島 武彦
本名程島 三匡 (ほどじま みつまさ)
生年月日 (1888-01-24) 1888年1月24日
没年月日不詳年
出生地 日本 東京府東京市(現在の東京都
職業俳優
ジャンル新劇新派劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間1910年代 - 1934年
主な作品
鳴門秘帖
『砂絵呪縛』
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兒島 武彦(こじま たけひこ、1888年1月24日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6]。新字体表記児島 武彦[1][2][3][4][5][6]、児嶌 武彦とも表記された[6][7]。本名は程島 三匡(ほどじま みつまさ)[1]
人物・来歴

1888年明治21年)1月24日東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2]

日本大学に進学するも、中途退学している[1]。最初に俳優としてのキャリアを始めたのは、芸術座(1913年 - 1918年)出身の田辺若男(1889年 - 1966年)が設立した「市民座」である[1]。その後、新派の伊村義雄の一座、五月信子(1894年 - 1959年)・高橋義信夫妻が主宰する「近代座」、村田栄子の一座等を転々としている[1]。最初に映画出演をしたのは、国際活映(1919年 - 1925年)の作品で、その後、帰山教正映画芸術協会(1919年 - 1924年)を経て、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災以降に京都に移り、小笠原明峰小笠原プロダクションに入社している[1]。記録に残るもっとも古い作品は、1924年(大正13年)11月22日に公開された『落葉の唄』(監督小笠原明峰)で、このときすでに児島は満36歳になっていた[1][3][4]

1925年(大正14年)には、古林貞二が前年に設立した社会教育映画研究所の作品であり、内田吐夢の監督作のなかで、現存する最古の作品として知られる『少年美談 清き心』(監督内田吐夢)に出演している[8][9]。同社は、同年6月に牧野省三が設立したマキノ・プロダクションと配給提携をしており[10]、児島は、同プロダクションに入社後も、1926年(大正15年)10月29日にマキノが配給して公開された社会教育映画研究所製作の作品『平和の勇士』(監督曾根純三)に出演している[3][4]。同社では、時代劇現代劇いずれにも出演し、なかでも同年11月7日からシリーズの始まった『鳴門秘帖』(監督沼田紅緑)では常本鴻山役を演じ、『日本映画俳優全集・男優編』の児島の項を執筆した盛内政志によれば、「風格ある演技を見せた」という[1]

1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、児島は、嵐冠三郎荒木忍南光明根岸東一郎谷崎十郎阪東三右衛門市川米十郎東郷久義市川幡谷、實川芦雁、桂武男市川新蔵津村博澤田敬之助河津清三郎五味國男川田弘三柳妻麗三郎小金井勝秋田伸一岡村義夫らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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