児島喜久雄
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児島 喜久雄人物情報
生誕 (1887-10-10)
1887年10月10日
日本 東京都
死没1950年7月5日(1950-07-05)(62歳)
日本 東京都
出身校東京帝国大学
学問
研究分野美学美術史
研究機関学習院東北帝国大学東京帝国大学
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児島 喜久雄(こじま きくお、兒島喜久雄、1887年明治20年)10月10日 - 1950年昭和25年)7月5日)は、白樺派の画家、美学美術史の研究者。特にレオナルド・ダ・ヴィンチの研究により知られている。東北帝国大学助教授を経て、東京帝国大学東京大学教授。
経歴

1887年(明治20年)東京市四谷区舟町に児島益謙の五男として出生。学習院初等科より里見クと親しく、1903年(明治36年)、16歳の時に画家の三宅克己に入門。1908年(明治41年)里見らの回覧雑誌『麦』に参加。第一高等学校在学時には岩元禎の指導も受けた。

1909年(明治42年)東京帝国大学文科大学文学科に入学。同年、里見とともにバーナード・リーチエッチングを習う。1910年(明治43年)に『白樺』の同人となる。1913年、東京帝国大学文科大学哲学科(美学専修)を卒業。

1914年(大正3年)第一回二科美術展覧会に(平日)入選。1921年、学習院教授就任。同年7月から1926年まで欧州留学[1]。留学中に東北帝国大学助教授に就任。1935年より東京帝国大学助教授兼任となる。1937年、東京帝国大学助教授専任となる。1941年、東京帝国大学教授に昇格。1950年、心筋梗塞のため死去[2]

児島の墓地は、東京都港区南青山2丁目の梅窓院で、傍らにはレオナルド・ダ・ヴィンチに因んだ文言を刻んだ碑が建っていたが、2022年3月親族による墓仕舞いにより、遺骨は東京都港区赤坂の赤坂不動尊威徳寺永代供養塔に改葬され、児島喜久雄・千代の墓石及びレオナルドの石碑(谷口吉郎の設計による)は、山梨県北杜市の清春白樺美術館に移設された。
研究内容・業績

1921年(大正10年)から5年間の欧州留学では、著名な美術史家に接し、主に古代とルネサンス美術を研究し、特にレオナルド・ダ・ヴィンチに関する研究は世界的水準にあると注目された。一方、その研究は西洋美術に留まらない裾野の広いもので、児島の下からは多彩な研究者が巣立った。特に西洋美術史学者の三輪福松清春白樺美術館館長ほか)や、ギリシア美術史研究者の澤柳大五郎東京教育大学教授ほか)は、著作を編纂した。

古代日本史研究者の井上光貞国立歴史民俗博物館の初代館長)は、父・井上三郎が児島と親交があった関係から、大学院進学前に児島の謦咳に接し、史学には歴史哲学の素養が重要であるとして、ドイツ語の関連原書を読むよう指導を受けたと回想している[3]。仏教美術史学者の町田甲一は、児島の指導を仰ぐことにした動機について、作品の具体的様式の歴史的変容を科学的に追究する美術史は、日本美術に関しては確立しておらず、西欧の学者に学ぶべきことが多いため、日本美術史研究を志す上で西洋美術史家の児島に就くことにしたと述べ、「いまでも私の学問上の本当の師匠は児島喜久雄先生ただ一人と思っている」と回想[4]している。東京帝大時代の同僚だった和辻哲郎も、追想記「児島喜久雄君の思い出」を残している[5]

東北大学附属図書館には、1956年(昭和31年)に寄贈された児島の旧蔵書が「児島文庫」として所蔵されている。

展覧会は、白樺派の文人、画家の資料を多数収蔵する山梨県長坂町清春白樺美術館で、1983年(昭和58年)の8月から9月に『白樺同人 兒島喜久雄展』が開催。2007年(平成19年)11月20日から12月27日には、児島の生誕120年を記念し『生誕120年 児島喜久雄と白樺派の画家たち』が開催。児島の遺族から寄贈された新収蔵資料等を展示し、児島による美術史研究とその画業が紹介された。
家族・親族

妻・千代(1890年生) -
山口県士族・木梨辰次カの長女。辰次郎の岳父に男爵藤村紫朗[6]

長女・輝子 - 西洋美術史学者三輪福松の妻

長男・児島光雄(1921年生) - 国際電信電話代表取締役副社長[7]。妻の夏子は大洋漁業社長中部謙吉の娘。謙吉と喜久雄は妻同士が姉妹。[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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