児井プロダクション
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こい えいせい
児井 英生
キネマ旬報社『キネマ旬報』第117号(1955)より
本名兒井 英男 こい ひでお
別名義高樹 彦九郎 たかぎ ひこくろう
生年月日 (1908-08-21) 1908年8月21日
没年月日 (1992-03-10) 1992年3月10日(83歳没)
出生地 日本 兵庫県神戸市
死没地 日本 東京都渋谷区恵比寿
国籍 日本
職業映画プロデューサー映画監督脚本家作詞家実業家
ジャンル映画
活動期間1932年 - 1992年
備考
勲四等瑞宝章
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児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日[1] - 1992年3月10日[2])は、日本の映画プロデューサー映画監督脚本家作詞家実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる[3]。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。
来歴

1908年(明治41年)8月21日兵庫県神戸市鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった[1]。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した[4]。1932年(昭和7年)、師事していた犬塚稔監督に付いて日本活動写真(日活)に移籍し、池田富保の下で「佐渡情話」「清水次郎長」の補佐をする。「清水次郎長」は前身座初の映画出演であり、撮影が終わってから河原崎長十郎や中村翫右衛門、山岸しづ江にセリフの発声やしぐさを手取り足取り教えたという。1935年(昭和10年)、監督に昇進[4]黒川弥太郎主演のトーキー剣戟映画『敵討三都錦絵』で監督としてデビューした。三作目の『大久保彦左衛門(第二編)では音楽を全てジャズにする。1936年(昭和11年)、西宮市甲陽撮影所に設立された甲陽映画に参加、羅門光三郎主演のサウンド版の剣戟映画『あばれ長脇差』を監督するが、1937年(昭和12年)、京都のマキノトーキー製作所の解散後、跡地に残党の今井理輔が設立した今井映画製作所に入社、海江田譲二主演の『青葉城異変』や『吉良の仁吉』等を監督する。1938年(昭和13年)には同社は解散し、配給提携をしていた東宝映画東宝映画京都撮影所に入社した[4]。同年、再び海江田主演の『戦国一番侍』を監督するが、これは東宝京都撮影所最後の作品となり、児井にとっても最後の監督作品となった。同撮影所で脚本を提供するほか、東京の大都映画での作品に「高樹彦九郎」名義で脚本を提供した。

このころ、「児井英男」名義で作詞家としての活動も行った。白木義信作曲、児玉好雄歌唱の『清水次郎長』(1935年)等である[5]。児井はJASRAC全信託作家である[5]

早くからプロデューサーを志向していた児井は1939年1月、東宝本社企画部へ転入社、東宝シナリオ研究所の所長となる。1942年(昭和17年)、千葉泰樹監督、入江たか子月形龍之介主演の『白い壁画』でプロデューサーとしてデビューした。西鶴一代女』、1952年。

第二次世界大戦による物資窮乏で映画製作が困難になり、同年に社団法人映画配給社の南方局へ入社。東南アジアへ宣撫工作を行う香港支社総務部長後に支社長として1945年まで香港へ赴任し、大本営の報道班員も務めた[2][6]

第二次世界大戦終結後に帰国。映画配給社南方局で軍に協力したとしてGHQから1948年まで公職追放され、東宝の森岩雄から演劇宣伝部長の仕事を世話してもらう[7][8]。公職追放解除の内示があり、1948年2月末で東宝を退社[9]。1947年(昭和22年)3月25日に設立された新東宝映画(のちの新東宝)と契約して1948年に映画プロデューサーとして復帰した[10]。同社で最初にプロデュースした映画は市川崑監督の『三百六十五夜』東京篇・大阪篇の2作で、1950年(昭和25年)には、松竹から小津安二郎を迎え、『宗方姉妹』を製作した。小津から改名のアドヴァイスを受け、本作をもって「児井英生」と改名した。同年、株式会社児井プロダクションを設立する[4]

翌1951年(昭和26年)には、東宝渡辺邦男監督の『伊豆物語』、成瀬巳喜男監督の『舞姫』、溝口健二監督の『武蔵野夫人』を製作した。1952年(昭和27年)、新東宝と児井プロダクションとの提携作品、溝口健二監督の『西鶴一代女』を製作、国内の興行はふるわず、児井が制作した150余本の映画の中で唯一の赤字作品となったが、作品は評価され、同年のヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した。

3年間のブランクを経て、新東宝での最後の作品、松本常保製作、冬島泰三監督、高田浩吉主演の剣戟映画『紋三郎の秀』を企画して復活。

1954年3月をもって新東宝を離れて[11]、常務の江守清樹郎の誘いで日活と契約[12]。契約プロデューサーだったが、高額の契約料で事実上の日活専属となった[13]。以後、活動の場を日活に移し、日本映画監督協会が企画し、齋藤良輔と小津安二郎が脚本を執筆した、女優・田中絹代の監督作『月は上りぬ』を製作した。前者は1955年(昭和30年)1月15日に、後者が1週早く同月8日に公開された。

その後、1957年から石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』、小林旭の「渡り鳥シリーズ」、吉永小百合浜田光夫主演の『愛と死をみつめて』などのヒット作を連発、ヒットメーカーとして名を馳せた[2]


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