光瀬龍
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光瀬龍。『S-Fマガジン』1963年10月号(早川書房)より。

光瀬 龍(みつせ りゅう、(1928年3月18日 - 1999年7月7日)は、日本SF作家[1]。本名は飯塚 喜美雄。元の姓は千葉で、結婚する際に妻の姓に改めた。
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東京府北豊島郡南千住大字千住南に生まれ、1933年から1945年3月まで板橋区練馬南町に育つ。東京市開進第三国民学校5年生のときに海野十三の短編集『十八時の音楽浴』を読み、強い感銘を受ける[2]

川村学院中学校在学中、1945年4月、岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)に疎開する。岩手育ちと自称していたが、実際に岩手ですごしたのは17歳から20歳までの3年間のみである。この間、光瀬は一関中学校(現・一関第一高等学校)に学び、1948年3月に同校を修了するまで青春期のひとときを謳歌している。前沢町は父母の出身地でもあり、光瀬の中では「郷里」という意識が少なからずあったらしい。また、父方は桓武平氏千葉氏の子孫、母方は東北の覇者だった安倍氏の子孫であるとも称しており、これも同地へよせる愛着と郷土意識のゆえである可能性がある。旧制一関中学4年修了後、上京して旧制東京高等学校を受験するも試験を途中で放棄し、岩手に帰る。

旧制一関中学卒業後、1948年春に上京。同年4月、東洋大学東洋哲学科予科に入学するも2か月ほどで自主退学。さらに明治大学農学部に入学するも、1か月で自主退学。その後、1948年6月に川村高等学校3年生となり、1949年3月に卒業する。東京農工大学農学部の受験を放棄し、同年7月、東京教育大学農学部に入学。後、理学部生物学科動物学教室に転じ、1953年3月に卒業。1954年4月、東京教育大学文学部哲学科2年に編入、のち中退。

大学卒業後、柴野拓美の主宰する「科学創作クラブ」に加入し、同会の会誌である『宇宙塵』誌上に「光瀬龍」の筆名で作品を発表しはじめる。「空想科学小説というものは、書くのがはじめてだった。それまでに、何回も文芸同人誌を作ったりこわしたりしていたし、劇団を作って戯曲を書いたりしていたから、書くという作業は苦にならなかった。(中略)[1958年]三月号に、三十枚ほどのものを載せたのがはじめてだった」[2]と語っている。当時客員として科学創作クラブに参加していた今日泊亜蘭とはその後、長く深交を結ぶことになる。

ペンネームは、光瀬が当時愛読していた作家井上靖が1954年に発表した短編小説「チャンピオン」の登場人物であるボクサーの名前にちなむ。それ以前は「菊川善六」名義で主に詩を書いていた。

作風は幅広く、「宇宙年代記」と総称される一群の宇宙SFをはじめとして、いわゆる架空戦記を含めた歴史改変ものを中心とする歴史小説・時代小説との積極的融合をはかったSF作品や、ジュブナイルSF、青春小説時代小説、歴史エッセイ、科学エッセイ、漫画作品の原作など多岐にわたっている。

小説分野における代表作は、阿修羅王ナザレのイエスらの神話的闘争を描いた『百億の昼と千億の夜』である。これを挟む『たそがれに還る』『 喪われた都市の記録』と併せ、当時としては長大なSFがあいついで発表され、スケール雄大な作風を賞賛された。

ジュブナイルSFにも力をそぞぎ、福島正実が1966年ごろに創設した作家、翻訳家、画家等の集団「少年文芸作家クラブ」に参加している。「覆面座談会事件」で福島と仲たがいした他のSF作家たちが会から脱会したのちも、眉村卓とともに会に残り、福島の死去時は葬儀委員をつとめた。のち、「少年文芸作家クラブ」は光瀬の提案で「創作集団プロミネンス」と改名して活動した[3]

また、在野の自然観察家としての豊富な知見を生かして、動物の生態観察にもとづいた一連のエッセイや野鳥図鑑などを執筆している。この系統での代表作品は、地道な野外観察記録をベースに虚実皮膜の間とも言うべき独自の境地を追求した『ロン先生の虫眼鏡』シリーズである。この作品は動物観察記録の域をこえて広範な読者層にアピールしたため、のちには、原作には登場しない独自のキャラクターが活躍する漫画作品として再構成されてもいる。なお、この漫画版『ロン先生の虫眼鏡』に登場するロン(=龍)先生のモデルは、原作者である光瀬本人である。


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