この項目では、後漢の光武帝について説明しています。大韓帝国の光武皇帝については「高宗 (朝鮮王)」をご覧ください。
「劉秀」はこの項目へ転送されています。漢の学者で劉向の三男の劉秀(または劉?)については「劉?」をご覧ください。
光武帝 劉秀
後漢
初代皇帝
光武帝肖像
王朝後漢
在位期間建武元年6月22日 - 建武中元2年2月5日
(25年8月5日 - 57年3月29日)
都城?陽(洛陽)
姓・諱劉秀
字文叔
諡号光武皇帝
廟号世祖
生年建平元年12月6日
(前5年1月15日)
没年建武中元2年2月5日
( (57-03-29) 57年3月29日(62歳没))
父南頓県令劉欽
光武帝(こうぶてい)こと劉秀(りゅう しゅう、前6年 - 57年[注釈 1])は、後漢王朝の初代皇帝。
王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことにより「光」、禍乱を平定したことにより「武」の文字が採用された[1]。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した唯一の皇帝である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。 劉秀は景帝の七男で長沙王となった劉発の末裔であり、?州の陳留郡済陽県で出生した。幼少の頃は非常に慎重かつ物静かな性格とされていた。のちに、憧れの陰麗華を娶ることとなる。
生涯
出生
燕王劉慶 南陽太守劉順
劉憲 漢中王劉嘉
蒼梧太守劉利 劉子張 更始帝劉玄
劉騫
劉? 劉顕 汝陰王劉信
宛王劉賜
鬱林太守劉外 鉅鹿都尉劉回 南頓県令劉欽 斉王劉?
趙王劉良 魯王劉仲
光武帝劉秀
挙兵光武帝
王莽が禅譲により新朝を開くと、周代の政治を理想として現実を無視した政策を実施したため、民心は離れ、匈奴・西羌・高句麗等周辺諸国・諸族の反感を買った。