光格天皇
[Wikipedia|▼Menu]

光格天皇
光格天皇像
東京大学史料編纂所蔵・模本)
第119代天皇
在位期間
1780年1月1日 - 1817年5月7日
安永8年11月25日 - 文化14年3月22日
即位礼1780年12月29日(安永9年12月4日
大嘗祭1788年1月5日天明7年11月27日
元号安永
天明
寛政
享和
文化
時代江戸時代
征夷大将軍徳川家治
徳川家斉
摂政九条尚実
関白九条尚実→鷹司輔平一条輝良
鷹司政熙一条忠良
先代後桃園天皇
次代仁孝天皇

誕生1771年9月23日明和8年8月15日)卯半刻
閑院宮
崩御1840年12月11日天保11年11月18日)子刻
桜町殿
大喪儀1841年1月12日(天保11年12月20日
陵所後月輪陵
漢風諡号光格天皇
諱師仁
1779年12月21日(安永8年11月14日)命名
兼仁
1780年1月1日(安永8年11月25日)改名
称号祐宮
元服1781年1月24日(安永10年1月1日
父親閑院宮典仁親王東山天皇皇孫)
母親大江磐代
中宮欣子内親王
子女温仁親王
悦仁親王
恵仁親王(仁孝天皇
盛仁親王(桂宮第10代)
蓁子内親王 他多数
皇居平安宮(土御門東洞院殿
親署
テンプレートを表示
光格天皇御胞塚(こうかくてんのうおんえなづか)、光格天皇の胞衣(えな)を埋納した塚、京都市上京区荒神口通河原町西入清荒神内

光格天皇(こうかくてんのう、1771年9月23日明和8年8月15日〉 - 1840年12月11日天保11年11月18日〉)は、日本の第119代天皇[注釈 1](在位: 1780年1月1日〈安永8年11月25日〉 - 1817年5月7日〈文化14年3月22日〉)。御称号は祐宮(さちのみや)。は師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)[注釈 2]

父は閑院宮典仁親王東山天皇の皇孫)。母は大江磐代鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。東山天皇は曽祖父、桃園天皇(先代、後桃園天皇の父)と後桜町天皇(先代、後桃園天皇の伯母)は再従姉弟にあたる。践祚前の安永8年11月8日1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。光格天皇の兄弟には閑院宮美仁親王真仁法親王がいる。

一世一元の詔発布(一世一元の制導入)以前に譲位した最後の天皇であり、以降、平成31年(2019年4月30日に第125代天皇明仁譲位するまでの202年間、天皇が譲位する例はなかった。
生涯

明和8年8月15日(1771年9月23日)、閑院宮典仁親王東山天皇の皇孫)の第六王子として生まれる。誕生の翌年、聖護院宮忠誉入道親王の附弟となり、聖護院に入寺。将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であった。

安永8年10月29日1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。後継候補者としての伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)の3人があげられた。先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。

安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。

天明2年(1782年)、天明の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、聖護院を仮御所とした[注釈 3]

天明7年(1787年6月天明の大飢饉の際に御所千度参りが行われると、後桜町上皇はりんご3万個を民衆に配布。光格天皇は事態を憂慮し、朝廷が幕府の方針に口出しをしないという禁中並公家諸法度の定めを破り、幕府に民衆救済を申し入れた。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。

ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に努める。また、朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。ただし、尊号の件以外は江戸幕府は天皇の意向を前向きに受け入れる姿勢を取っており、天皇自身も譲位の直前に将軍徳川家斉に対して御衣とともに感謝の書状を送る[3] など、在位中は大きな対立は発生せず、朝幕関係はむしろ安定していたとする指摘もある[4]

寛政6年3月7日1794年4月6日)、欣子内親王を中宮に冊立した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef