光明皇后
『光明皇后』
1897年(明治30年)下村観山 画
(三の丸尚蔵館 蔵)
第45代天皇后
皇后天平元年(729年)8月10日
皇太后天平勝宝元年(749年)7月2日
誕生大宝元年(701年)
崩御天平宝字4年(760年)6月7日
陵所佐保山東陵
諱安宿媛(あすかべひめ)
尊号天平応真仁正皇太后
別称光明子、藤三娘
戒名沙弥万福
氏族藤原氏
父親藤原不比等
母親県犬養橘三千代
配偶者聖武天皇
入内霊亀2年(716年)
子女孝謙天皇
基王
身位夫人→皇后→皇太后
宮廷首脳人物藤原仲麻呂(紫微令)
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光明皇后(こうみょうこうごう、701年〈大宝元年〉- 760年7月23日〈天平宝字4年6月7日〉)は、聖武天皇の皇后で孝謙天皇の生母[1]。藤原不比等と県犬養橘三千代の子で、聖武の母藤原宮子は異母姉。一般に知られる光明皇后という名前は、在世中に名乗った光明子(こうみょうし)[注釈 1]に因んで後世に付けられたもので[5]、『拾遺和歌集』が初出である。本来の尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)[6][注釈 2]。諱は安宿媛(あすかべひめ)[8]。そのほかに藤三娘(とうさんじょう)[注釈 3]などの署名が現存するほか[1]、法名は沙弥万福と伝わる[10]。本記事での呼称は光明子で統一する。
光明子は不比等が権力基盤を固めつつあった時期に生まれ、藤原氏を中心とした権力闘争や皇位継承など、周囲に政争が絶えない生涯を過ごした。とくに光明子自身の立后および息子基王と娘阿倍内親王の立太子などの前例のない政治的決定と、紫微中台による政治運営において、その中心にいた人物である[11]。光明子は藤原氏あるいは不比等の娘であることを強く意識しており[9][12][1]、またこの頃の政策には則天武后の政策をなぞらえるものも多く、光明子と則天武后を関連付ける見方も少なくない[11][13][14]。しかし、それらの政争・皇位継承・政治運営に光明子の意向がどの程度働いたのかは記録にほとんど残されておらず、断片的な情報から研究されている状況である[11]。そのため、光明子を「病弱でひ弱な聖武を傀儡とした」「女帝に即位する野心があった」などと権力欲をもった人物と評する意見もあるいっぽうで、藤原武智麻呂や藤原仲麻呂ら藤原氏の権力掌握に利用されただけとの見方もあり、評価が分かれる人物である[11][15]。
文化面では両親、特に三千代の影響を受けて仏教に深く帰依した[16][14]。光明子は同時期の仏教政策に深く関与しており、東大寺大仏造立や国分寺建立は光明子の勧めにより実施された[17][18][16]。また、光明子が創建したと伝わる寺院には法華寺[19]・新薬師寺[20]・海龍王寺[21]があり、建立した堂塔も興福寺[22]・法隆寺[23]などにあった。