光明寺_(長岡京市)
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光明寺

御影堂
所在地京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度56分18.48秒 東経135度40分30.68秒 / 北緯34.9384667度 東経135.6751889度 / 34.9384667; 135.6751889座標: 北緯34度56分18.48秒 東経135度40分30.68秒 / 北緯34.9384667度 東経135.6751889度 / 34.9384667; 135.6751889
山号報國山
院号念佛三昧院
宗派西山浄土宗
寺格総本山
西山三山
本尊法然上人像(張子の御影)
創建年建久9年(1198年
開山法然
開基蓮生(熊谷直実
中興倍山俊意
正式名報國山念佛三昧院光明寺
別称粟生光明寺(あおこうみょうじ、あおうこうみょうじ)
淨土門根元地(綸旨
広谷庵室
もみじ寺
札所等法然上人二十五霊跡第16番
京都洛西観音霊場第7番
西山国師遺跡霊場第13番
文化財絹本著色二河白道図、絹本著色四十九化仏阿弥陀来迎図、木造千手観音立像(重要文化財
本堂、阿弥陀堂、釈迦堂ほか(市指定有形文化財
公式サイト ⇒京都 総本山 光明寺
法人番号7130005006436
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もみじ参道

光明寺(こうみょうじ)は、京都府長岡京市粟生西条ノ内にある西山浄土宗総本山寺院山号は報国山。本尊法然上人像(張子の御影)。法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である。また、紅葉の名所としても広く知られる。粟生光明寺とも呼ばれている。
歴史

奈良へ学匠となるべき師を求めて比叡山延暦寺を下ってきた24歳の法然が、粟生野の里の村役だった高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りた際、茂右衛門夫妻は法然の真剣な求法の気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅であることを聞いて「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と法然にお願いした。

そして承安5年(1175年)3月、ついに浄土宗を開いた法然は20年前の約束を守ろうと、この地で初めて念仏の法門を説いた。こうして法然が初めて「お念仏」の教えを説いた地であることからこの地は「浄土門根元地」といわれている。

その後、法然を慕い帰依した弟子の蓮生(熊谷直実)が、建久9年(1198年)に法然ゆかりの当地に念仏三昧堂を建立し、法然から「念仏三昧院」の寺号を頂戴したのが光明寺の直接の始まりである。建永2年(1207年)9月4日に熊谷で予告往生を遂げた蓮生の遺骨は、遺言により当寺に安置されたという。

嘉禄3年(1227年)に起こった嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し、廟堂が建てられた。その際に法然の石棺からまばゆい光明が発せられたという。四条天皇はそのことを聞いて、光明寺の勅額をあたえ、寺名を改めた。

法然の弟子である西山上人証空西山義の教えを広めていき、浄土宗西山派が成立していくが、その弟子の浄音が証空の教えの上に更に自らの考えをも交えて西谷(せいこく)流を唱えると、光明寺の他に禅林寺(永観堂)も主な拠点として西山義、西谷流の教えを広めた。

応仁の乱の際に兵火にあっている。

永禄6年(1563年)3月10日に、正親町天皇から「法然上人の遺廟、光明寺は浄土門根元の地と謂いつべし」という綸旨を頂いている。

元亀年間(1570年 - 1573年)と天正年間(1573年 - 1592年)の初めにも兵火にあっている。

こうして衰微していた光明寺であるが、慶安4年(1651年)に中興・倍山俊意が入山すると、倍山によって伽藍の再建が進められ光明寺絵縁起が作製されるなどし、檀林の復興まで行われるようになり境内は整えられていった。

しかし、享保19年(1734年)11月18日に客殿から失火すると御本廟、本廟拝殿、鐘楼、経蔵、薬医門を除いて一山が全焼してしまう。元文3年(1739年)から復興が行われる。

1876年明治9年)には光明寺は浄土宗西山派の西本山となる。だが、1919年大正8年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗となる)、浄土宗西山禅林寺派浄土宗西山深草派の三つに分裂してしまい、現在に至る。

敷地6.6ヘクタール、建造物は33棟でそのうち17棟が市指定文化財である。
境内

御影堂(長岡京市指定有形文化財) - 本堂。
宝暦4年(1754年)再建。本尊は法然上人像(張子の御影)である。この法然上人像は、法然自作の張り子の御影であるといわれている。寺伝によると、承元元年(1207年)に起こった承元の法難により、法然は讃岐国に流されることとなった。2月、その旅の途中で弟子の湛空と面会し、形見が欲しいといわれた法然は、肌身離さず持っていた母からの手紙を使い、自ら張り子の肖像を作製し湛空に与えた。後に湛空は二尊院の住持となるとその像を祀っていたのだが、いつしか光明寺の所有になったものという。法然上人像が着ている法服は、大正天皇の后である貞明皇后から賜ったものである。

昭和天皇お手植えの松 - 昭和天皇が皇太子の時にお手植えされた松。

回廊

阿弥陀堂(長岡京市指定有形文化財) - 寛政11年(1799年)再建。御影堂とは渡り廊下で繋がっている。本尊の阿弥陀如来立像は源信(恵心僧都)の作とされ、創建当初から祀られているという説の他、蓮生(熊谷直実)が近江国堅田にある満月寺浮御堂から背負って持ってきたものとの説もある。また、光背の上部にある阿弥陀如来の化仏は法然が自ら作ったものであるという。

位牌堂

勢至堂(長岡京市指定有形文化財)

納骨堂(長岡京市指定有形文化財)

御本廟(長岡京市指定有形文化財) - 法然の廟所。法然の遺骨を7日間供養して分骨し、その一部を当地に葬り、廟堂が作られた。明暦2年(1656年)再建。光明寺で最古の建物である。堂内の彫刻は左甚五郎が作製したものであるという。

本廟拝殿(長岡京市指定有形文化財) - 拝堂とも呼ばれる。承応2年(1653年)再建。

本廟門(長岡京市指定有形文化財)


十三重石塔 


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