光明寺
本堂(重要文化財)
所在地神奈川県鎌倉市材木座六丁目17番19号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度18分11.7秒 東経139度33分17秒 / 北緯35.303250度 東経139.55472度 / 35.303250; 139.55472
光明寺(こうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗の寺院である。寺格は大本山。山号を天照山と称する。本尊は阿弥陀如来。
歴史に開創した蓮華寺を起源とし、寛元元年(1243年)現在地に移築し光明寺と改称したとされるが、『然阿上人伝』は鎌倉入を正元元年(1259年)としており、疑問視されている[3][注釈 1]。
13世紀から14世紀にかけての歴史はあまり定かでないが、室町時代には中興開山とされる祐崇(ゆうそう、? - 1509年)によって復興された。明応4年(1495年)には後土御門天皇より勅願寺に定められている。
近世には、浄土宗の関東十八檀林の第一位の寺として栄えた[2]。
境内
山門?五間三戸二重門(正面柱間が5間で、うち中央3間が通路になっている、2階建ての門)で、浄土宗関東総本山にふさわしい大規模な門である。鶴岡八幡宮から移築したものとされ、弘化4年(1847年)ごろの建築である。大工事には三州瓦が用いられており、1909年(明治42年)から1911年(明治44年)にかけて、永坂杢兵衛が光明寺に対して3万1223枚の瓦を出荷している[5]。
本堂(重要文化財)?元禄11年(1698年)の建立。入母屋造、銅板棒瓦葺きで、桁行9間、梁間11間。実寸は間口奥行ともに約25メートルの、鎌倉地方では最大級の本堂である。内部は畳敷きの広大な空間となっており、前半部を外陣、後半部は内陣、両脇陣および後陣とする。外陣は柱列によって前後に分かれ、正面寄りを前外陣、奥を奥外陣と称する。内陣部は床高を外陣より一段高くした上段形式である。1923年(大正12年)の関東大震災でもほとんど損傷しておらず、建立当初の形式をよく保っている。1999年(平成11年)に重要文化財に指定されている。[6]
内藤家墓所?陸奥国磐城平藩のち日向国延岡藩の領主内藤家歴代の墓所で、歴代藩主の多くやその正室など200基以上の石塔が立つ。江戸の霊巌寺から移されたものである。
このほか、総門、稲荷社、鐘楼なども近世の建築であり、他に開山堂、書院、客殿などが建つ。