光明上皇
[Wikipedia|▼Menu]

光明天皇

北朝第2代天皇
在位期間
1336年9月20日 - 1348年11月18日
建武3年8月15日 - 貞和4年10月27日
即位礼1338年1月19日(建武4年12月28日
大嘗祭1338年12月30日暦応元年11月19日
元号建武
暦応
康永
貞和
時代室町時代南北朝時代
征夷大将軍足利尊氏
先代後醍醐天皇[注釈 1]
光厳天皇[注釈 2]
次代崇光天皇

誕生1322年1月11日元亨元年12月23日
崩御1380年7月26日康暦2年6月24日
陵所大光明寺陵
追号光明院
(光明天皇)
諱豊仁
別称真常恵(法名)
暦応皇帝
法安寺法皇
宇治殿
父親後伏見天皇
母親西園寺寧子
皇居土御門東洞院殿
(現在の京都御所
親署
テンプレートを表示

光明天皇(こうみょうてんのう、1322年1月11日元亨元年12月23日〉- 1380年7月26日康暦2年6月24日[2])は、日本北朝第2代天皇[注釈 3](在位:1336年9月20日建武3年8月15日〉- 1348年11月18日貞和4年10月27日〉)[4]は豊仁(ゆたひと、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:豐仁)。

後伏見天皇の第九皇子。母は西園寺公衡の女の西園寺寧子

延元の乱の最中に、光厳上皇の譲国詔によって践祚。在位中は光厳上皇による院政が敷かれていたため、めぼしい業績はないが、天皇として、有職故実芸術学問の習得に励んだ。正平一統が破綻した際に、南朝によって拉致されている。

なお、その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、明治以降、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が北朝初代天皇として扱われているため、現在の皇統譜では光明は北朝第2代とされている。
生涯

後伏見上皇の第九皇子として、元亨元年(1322年12月23日巳の刻に誕生[5]。場所は今小路殿[6]。元亨2年(1323年)2月13日に親王宣下され、「豊仁」(ゆたひと)と命名される[7]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに光厳上皇の譲国詔の原文があります。

後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏は、持明院統の当主でかつ後醍醐に廃位されていた光厳上皇と手を組むことによって、湊川の戦いで後醍醐天皇軍に勝利した。1336年建武3年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。そして9月20日(旧暦:8月15日)尊氏の要請により、治天の君である光厳上皇院宣を用いて、豊仁を践祚させた(光明天皇)。この際、光明は兄の光厳の猶子として位置づけられ[2]、光厳は治天の君として院政を始めることになった。光明の即位時には三種の神器は後醍醐のもとにあったが、後醍醐は尊氏と和睦すると神器と称するものを光明側に引き渡し、光明が唯一の天皇であると認めさせられた格好で幽閉された。その後、1337年1月23日(建武3年12月21日)に吉野に逃れた後醍醐は自らの退位と光明の登位をともに否認し、南北朝体制が成立する。ウィキソースに光明天皇譲位宣命の原文があります。

1348年11月18日(貞和4年10月27日)に光明は、光厳上皇の第一皇子崇光天皇に譲位した。上皇になった後の1351年(観応2年)、足利氏の内紛である観応の擾乱を期に、足利尊氏が南朝に帰順、崇光天皇は廃され、南朝による正平一統が行われる。北朝の神器が接収され南朝に届くと、南朝はその神器に内侍所御神楽を行い、光明上皇と崇光天皇に尊号を贈った[8]。一見温情のある処置のように見えるが、光明上皇は3年前にすでに崇光天皇より尊号を賜っており、もう一度南朝が尊号を贈ることで、北朝においてなされたことは一切認めないという南朝の宣言であったとされる[9]。同日光明上皇は出家した。この時、光厳上皇は光明上皇の出家を「御迷惑」と非難したという[10]

そして翌年閏2月、南朝の軍勢が足利義詮を排除して京都を奪回した際に、光厳上皇・崇光上皇・皇太子直仁親王とともに捕らえられる。以後は南朝方により大和国賀名生(奈良県五條市)に軟禁される。3名の上皇と直仁は1354年4月文和3年3月)に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。そして、11月になると後村上天皇自らも金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、1355年9月14日(文和4年8月8日)には一足早く光明のみ解放されて京都に返された。

京へ戻った以後は落髪して仏道に入ったとされる。伏見の保安寺、深草の金剛寿院、大光明寺、長谷寺など各地を遍歴して修行したという[11]1380年7月26日(康暦2年6月24日)、長谷寺にて崩御した。宝算60。
即位と神器

三種の神器がない状況での光明の即位は、後鳥羽天皇後白河法皇の院宣により即位した先例に従ったものである。

後醍醐天皇は、建武の乱敗北後、三種の神器を北朝に譲り渡した[注釈 4]。この時点で光明天皇の「神器なしの即位」という点は解消された。しかし、後醍醐天皇が逃亡して独自の朝廷を構築した際、北朝に渡した三種の神器は偽物であると称した。この段階で三種の神器が2組存在したことになる。しかし、北朝初代光厳天皇の三種の神器は本物とされているが、それが後醍醐天皇から渡御した際に朝廷は検知をして宝剣の破損を把握していた。また神鏡は内侍所で厳重に管理される。これらのことから、状況的に偽物を渡してもそれがまかり通るとは考えにくいとされている[13]。実際に後の正平の一統後村上天皇は北朝の神器を奪還し、その北朝の神器に対して南朝初となる内侍所御神楽を厳重殊勝に行い、同時に阿野廉子に院号宣下を行ったり関白任命を行ったりなど、まるで三種の神器の帰還を祝福するかのような素振りを見せていた[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef