光復
各種表記
ハングル:?? (8・15??)
漢字:光復(8・15光復)
発音:クァンボク(パリロクァンボク)
日本語読み:こうふく(はちいちごこうふく)
文化観光部2000年式:Gwangbok (Pariro gwangbok)
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光復節
各種表記
ハングル:???
漢字:光復節
発音:クァンボクチョル
日本語読み:こうふくせつ
文化観光部2000年式:Gwangbokjeol
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光復節(こうふくせつ)は、大韓民国(韓国)の祝日の一つ。日付は8月15日[1]。
辞書「高麗大韓国語大辞典」においては、光復(こうふく)という単語は「奪われた主権を取り戻す」という意味を持つとされているが[2]、韓国においては、朝鮮総督府による降伏文書調印やアメリカ軍による軍政と関係なく、「1945年8月15日に朝鮮が日本の統治から脱し自主独立を取り戻した」とされているため、8・15光復(8・15こうふく)とも表記される[3]。
なお、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)においては、朝鮮が日本の統治から離脱した出来事について「金日成が抗日革命闘争を勝利へ導くことでもたらされた偉業」と認識しているため、「光復」という単語を用いず「祖国解放(そこくかいほう)」と表現している[4]。その為、北朝鮮でも8月15日は祝日になっているが、その名称も「解放記念日(かいほうきねんび)」としている[1]。
だがこれは朝鮮民族にとっては南北民族分断という新たな試練の時代の始まりでもあった。 本来「光が復する(戻る)」という意味の単語である「光復」が、「朝鮮の日本統治からの離脱(解放)」という朝鮮史上の出来事を意味するようになった理由について、韓国民族文化大百科事典は次のように解説している。 (前略)韓国人にとってそれ(光復)は、日帝によって国を奪われ植民地統治を受けている状態は暗黒(である)という認識に対する対峙観念に通じる。従って、光復は国を取り戻し、自らを治める国がある本来の状態に戻ってくることを意味する。[3] 上記のような考えから、大韓民国政府は1949年10月1日制定の「国民の祝日に関する法律」で8月15日を「光復節」という名で祝日に指定した[5]。しかし、この時点で「光復」・「光復節」は韓国政府の公式用語になっておらず、朝鮮の日本統治離脱を主体的にとらえて「光復」と呼ぶか受動的にとらえて「解放」と呼ぶか韓国内でも意見が分かれていた[6]。その後、「光復」・「光復節」が韓国における公式名称となったのは、1994年3月に金泳三大統領が大統領令14185号(光復50周年記念事業委員会規則)[7]を制定してからである[6]。 なお、光復節当日には独立記念館
韓国における「光復」の概念と光復節の制定
「光復」から実際の独立に至る過程詳細は「連合軍軍政期 (朝鮮史)」を参照西大門刑務所を出所した独立運動家
(1945年8月16日午前9時)南山国旗掲揚台の太極旗
(1945年8月25日)大韓民国政府樹立国民祝賀式
(1948年8月15日)
大韓民国(韓国)では「朝鮮が日本から主権(独立)を取り戻した日」を1945年8月15日と認識しているが、実際に朝鮮人が独立国家で主権を行使できるようになるまでには、連合国の占領行政下で3年にわたる紆余曲折があった。
朝鮮半島は韓国併合(1910年)以来、日本(朝鮮総督府)の統治下にあった。だが、1945年8月15日、連合国の発したポツダム宣言を日本が受諾して降伏することが発表されると(玉音放送)、一般の朝鮮人にとってそれは第二次世界大戦の終結のみならず、朝鮮の日本による統治からの解放(「光復」)を意味するものであることが確実となった[8]。同日、朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作と、朝鮮独立回復運動家の呂運亨との会談がもたれ、日本側からの条件では日本人の安全および財産保全、朝鮮側からは政治犯釈放や食糧確保条件がだされ、行政権を朝鮮総督府から朝鮮側に委譲されることで合意が得られ、同日発足の朝鮮建国準備委員会に委譲されることとなった。翌日の8月16日、ラジオ放送で、行政権の委譲を発表、5千人程度の公然集会で、呂運亨が報告する。
朝鮮は民族解放の喜びに沸き立ち[9]、各地で日章旗が降ろされ、朝鮮王朝時代からの国旗である太極旗が掲げられたと言われている。政治犯(多くが共産主義者であった)の大半が日本本土では10月10日まで釈放されなかったのに対し、朝鮮半島ではその多くが8月16日と8月17日に釈放され、8月17日には朝鮮神宮が焼き討ちされた。朝鮮の「解放」を受け、朝鮮半島のさまざまな地域で共産主義者による人民委員会が自然発生的に結成されたとも言われている[10]。
9月2日、日本及び連合国各国は降伏文書(休戦協定)への調印を行った。連合国側はヤルタ会談に基づき、朝鮮半島を米英華ソ4ヶ国による信託統治下におく計画を持っていたが、結局、北緯38度線を境としたアメリカ合衆国及びソビエト連邦の南北分割占領に至り、朝鮮のその後の歴史に大きな影響を与えることになった。
米ソによる占領詳細は「連合軍軍政期 (朝鮮史)」を参照
米ソはもともと互いの軍を朝鮮に進駐させる計画だったが、戦後処理を北緯38度線の南北で分担することなどを決めているにすぎなかった。しかし、アメリカはソ連が朝鮮全土を占領することを恐れ、急遽、北緯38度線を境に半島南半部を米軍、半島北半部をソ連軍が分割占領することでソ連と合意した。