光岡早苗
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みつおか さなえ
光岡 早苗
本名同
生年月日 (1935-01-05)
1935年1月5日(89歳)
出生地京城府(現在の 大韓民国 ソウル特別市
職業女優
ジャンル劇場用映画喜劇映画時代劇映画成人映画)、テレビ映画教育映画
活動期間1954年 - 1966年
1977年
事務所新東宝
東映
主な作品
『初笑い寛永御前試合』(1953年)
『歪んだ関係』(1965年)
『餌(英語版)』(1966年)
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光岡 早苗(みつおか さなえ、1935年1月5日 - )は、朝鮮京城府出身の日本の女優である[1]。一時期(1965年 - 1966年)、城山路子(しろやま みちこ)と改名した。人気喜劇俳優花菱アチャコの恋人役に抜擢された『初笑い寛永御前試合』(1953年)でデビュー、美空ひばり片岡千恵蔵の主演作の脇役女優であったが、黎明期の成人映画界に飛び込み、若松孝二監督の初期作『歪んだ関係』(1965年)、アメリカイギリスでも公開された『餌(英語版)』(1966年)等の主演女優を務めたことで知られる。
人物・来歴
新東宝から東映へ

1935年(昭和10年)1月5日、日本統治時代の朝鮮京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)に建築設計技師の光岡基衛・とみ夫妻の娘として生まれる。1941年(昭和16年)4月、国民学校初等科(かつての尋常小学校)に同地で入学、1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終結の前後に日本に引き上げる。

1950年(昭和25年)4月、千葉県千葉市にあった新制高等学校・聖書学園高等学校[2](現在の千葉英和高等学校)に入学するも、翌1951年(昭和26年)早々に中途退学し、同年、東京都渋谷区代々木文化服装学院師範科に入学、同校在学中の1953年(昭和28年)、映画会社の新東宝にスカウトされ、「」として同社に入社する。同年12月28日に公開された、斎藤寅次郎監督の『初笑い寛永御前試合』に出演、主演の花菱アチャコの恋人・弥生役に抜擢されて、映画界にデビューしたとされる。ただし東京国立近代美術館フィルムセンターの所蔵作品データベースによれば、それに先立つ同年12月13日に公開された田中絹代の初監督作であり、第7回カンヌ国際映画祭に出品された『恋文』に出演しており、光岡の名がクレジットに残っている。その後、次第に脇に回り始め、1956年(昭和31年)いっぱいで東映に移籍した。

東映では当初、東映京都撮影所に在籍し、1957年(昭和32年)1月22日に公開された加藤泰監督の時代劇映画『恋染め浪人』が同社での最初の出演作である。加藤泰の作品には、新東宝時代に『逆襲大蛇丸』(1955年)にすでに出演している。翌1958年(昭和33年)早々に東映東京撮影所に異動、以降、数多くの映画に脇役・端役で出演する。テレビ映画にも出演しており、1962年(昭和37年)9月19日に放映された『特別機動捜査隊』第48回『ダイナマイト』(監督不明)ではゲスト主演を果たした。同撮影所に在籍した6年間に、わかっているだけでも出演作は60作を超えている。1964年(昭和39年)1月28日に放映されたテレビ映画『戦友』第18回『悲しき再会』(監督不明)にゲスト出演したのを最後に、東映を去った。
成人映画界へ転向

1964年4月に佐藤重雄が設立した映画製作会社・轍プロダクションが、大映東京撮影所を退社した水野洽を監督に起用して成人映画『危険な人妻』を製作、同年9月に公開されたが、光岡はこれに主演、以降、成人映画に転向する。轍プロダクションでは同年12月に公開された『女はそれを待っている』(監督経堂三郎)にも主演[3]本木荘二郎のシネユニモンドが製作・配給、本木が高木丈夫の名で監督、同年10月14日に公開した『洋妾 らしゃめん』、同じく公開日不明の『白い手袋の秘密』に主演している。本木の『洋妾 らしゃめん』を光岡の成人映画転向第1作とする資料もある。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子、内田高子香取環新高恵子松井康子西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩佐伯秀男を挙げているが、城山路子と光岡早苗は同一人物であり、重複している。

同年11月に後藤充弘が設立した葵映画が第1作として製作した『赤い肌の門』の監督に『危険な人妻』の水野洽が起用されて片岡均の名で監督、同作の主演に光岡が起用され、同作は翌1965年(昭和40年)1月、葵映画が配給して公開された。光岡は同作をもって城山 路子と改名する。当時、光岡は、中野区城山町(現在の同区中野1丁目)に住んでいた。同じころNHK大阪放送局から葵映画に引き抜かれた西原儀一は、入社第1作として『激情のハイウェー』を監督しているが、当時の映倫(新映倫、映画倫理管理委員会)の削除基準を知り、急遽、当時としては短いわずか3日間の撮影期間と低予算で『いろ地獄』の製作を計画、城山(光岡)は同作の主演に起用された。映倫は同作を一般映画のサスペンス映画として評価、作品の評価も高かったが、成人映画として売り出したかったため、困ったと西原は後述している。同作は同年7月に映倫の審査を通過して成人映画にレイティングされ、同年9月7日に公開された。城山(光岡)はその後も葵映画で、水野洽が片岡均の名で監督した『流転の愛欲』(1965年9月公開)、西原儀一が千葉隆志の名で監督した『くずれる女』(1966年4月5日公開)の2本に出演、いずれも主演した。

1966年(昭和41年)8月に公開された『餌』(監督向井寛)に出演したのを最後に、引退した。引退時期に公開された最後の作品は、同年10月に公開された『女の砦』(監督片岡均)、『人妻の秘密』(監督山本晋也)である。以降は、東中野でバーを経営していたが、1977年(昭和52年)、小川欽也が小川和久の名で監督した『熟れた夫人の乱れ咲き』(製作・配給大蔵映画)に「光岡早苗」の名で出演している。同作は同年6月28日に公開された。光岡が経営したバーは、2005年(平成17年)の時点で経営者であった隆見夏子(小林悟夫人・初枝)によれば、ある時点で映画監督の小林悟(1930年 - 2001年)が同店の経営を引き継いだという。その後の光岡の消息は不明である。2008年(平成20年)、アメリカで『餌』のフィルムが発見され、同年5月13日にDVDが発売された。
フィルモグラフィ女真珠王の復讐』(監督志村敏夫)のポスター、1956年7月5日公開。点と線』(監督小林恒夫)のポスター、1958年11月11日公開。

クレジットはすべて「出演」である。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す。
新東宝

恋文』 : 監督田中絹代、製作・配給新東宝、1953年12月13日公開 - 出演、97分の上映用プリントをNFCが所蔵

『初笑い寛永御前試合』 : 監督斎藤寅次郎、主演花菱アチャコ、製作・配給新東宝、1953年12月28日公開 - 弥生(デビュー作)

『一等マダムと三等旦那』 : 監督小森白、主演轟夕起子、製作・配給新東宝、1954年4月13日公開 - 清水地図子

ハワイ珍道中』 : 監督斎藤寅次郎、製作・配給新東宝、1954年9月14日公開 - 出演、86分の上映用プリントをNFCが所蔵

『エノケンの天国と地獄』 : 監督佐藤武、製作・配給新東宝、1954年10月12日公開 - マサ子

日本敗れず』 : 監督阿部豊、製作・配給新東宝、1954年10月26日公開 - 出演、102分の上映用プリントをNFCが所蔵

『逆襲大蛇丸』 : 監督加藤泰、製作・配給新東宝、1955年1月3日公開 - 出演、70分の上映用プリントをNFCが所蔵

『忍術児雷也』 : 監督萩原遼、製作・配給新東宝、1955年1月3日公開 - 出演、80分の上映用プリントをNFCが所蔵

番場の忠太郎』 : 監督中川信夫、主演山田五十鈴若山富三郎、製作・配給新東宝、1955年3月29日公開 - お登世、86分の上映用プリントをNFCが所蔵


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