光子内親王
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光子内親王
光子内親王自画像(泉涌寺蔵)
続柄後水尾天皇第八皇女

全名光子(てるこ)
称号朱宮(緋宮)
身位内親王
出生寛永11年7月1日1634年7月25日

死去享保12年10月6日1727年11月18日)(享年94)

父親後水尾天皇
母親櫛笥隆子(養・徳川和子
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朱宮(緋宮)光子内親王(あけのみや てるこないしんのう、寛永11年7月1日1634年7月25日) - 享保12年10月6日1727年11月18日))は江戸時代初期の皇族。後水尾天皇の第八皇女。林丘寺開基。号は照山元瑶。元瑶内親王、林丘寺宮と表記されることもある。
略歴

後に光子内親王となる朱宮は後水尾天皇と女官櫛笥隆子の皇女として、異母姉明正天皇の御世に生まれる。後西天皇をはじめとした七人の同母兄弟がおり、異母兄弟は明正、後光明霊元の三天皇を含む二十三人の大家族であった。

女官を生母として生まれた朱宮は本来であれば、他の多くの女官腹の皇女を同じく、内親王宣下を受けることもなく比丘尼御所で生涯を終えるのが通例であったが、1638年(寛永15年)に父帝の中宮(当時は女院)徳川和子(東福門院)の養女となり、内親王宣下を受け光子内親王の名を賜った。

時期は不明であるが、養母東福門院の薦めにより、四代将軍徳川家綱との縁談が持ち上がったこともあるという。しかしながら、公家武家の通婚や養子縁組を良しとしなかった父帝後水尾天皇の反対によりこの縁談は成立することはなかった[1]。その後、内親王に縁談はなく生涯を独身で過ごした。

後水尾天皇は多くの女官たちとの間に多数の皇子女をなしたが、東福門院と女官所生の皇子女とは仲が良く、また、母が異なる皇子女同士も非常に良好な関係であった。後水尾院と東福門院をはじめ、兄弟たち、院の兄弟、旧知の公家、女官などとたびたび集まり親交を深めたという。内親王もこれによく参加し遊びや文芸などを楽しんだ。多くの兄弟姉妹中で幼い頃から聡明であった内親王は異母妹である常子内親王とともに父帝より特別に寵愛されたという。なお、仙台藩三代藩主伊達綱宗は母方のいとこ[2]である。
出家

父帝後水尾天皇が黄檗宗の庇護に努めたこともあり、内親王も幼少の頃より、高僧の法話に聞き入り仏教への親和を深めていった。1665年(寛文5年)には黄檗宗の龍渓性潜により菩薩式を受け、道号照山、法諱元瑶の号を受ける。

1680年(延宝8年)には父・後水尾法皇が崩御し、遺言により内親王は知行三百石[3]が与えられた。その二ヵ月後に大覚寺[4]に入寺し、天龍寺の僧天外のもとで剃髪し、嵯峨一灯庵に幽棲した。二年後の1682年(天和2年)には修学院村に林丘寺を建立し、開基となった。父帝の生前、内親王は修学院離宮内に別殿を賜って楽只軒と称しており、この朱宮御所(音羽御所)を寺に改め林丘寺とした。客殿は養母東福門院の旧御所を移築したものである。

生母櫛笥隆子の亡き後、光子内親王は寺を出ることはなく、経典の読謡や写経をして過ごした。また、捨て子を引き取り養育したという。1707年(宝永4年)に異母弟霊元天皇の皇女亀宮(後の元秀女王)が林丘寺に入ると普門院と号し隠居した。光子内親王は1727年(享保12年)に94歳の高齢で亡くなった。時の天皇は中御門天皇であり、内親王は六代の天皇の御世を生きたこととなる。
その他

当代一級の文化人であった後水尾天皇を父に、芸術と文化のパトロンであった東福門院を養母に持ち寛永文化が花開いた時代に育った内親王もまた、和歌や書、絵画に優れた才能を残した人であった。

特に、絵画は狩野安信狩野派を学んだ黄檗宗の卓峯道香に手ほどきを受け、多数の作品を残した。自画像と父後水尾天皇の肖像画二点、花鳥図などが残されているが、残された作品の多くは修行の一環としての観音[5]を描いたものである。千点以上の観音像を描き、三千点という葉(しきみば)観音像[6]を創り、檀家や寺社がこれを求めたという。「讃観音大士伽陀集」二巻の撰述がある。
脚注[脚注の使い方]^ 『基熙公記』
^ 綱宗生母は隆子の姉妹貝姫。異説もあり
^徳川実紀
^ 門跡は同母弟・性真法親王
^ 「 ⇒観音図」 絹本墨画 ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵など
^ 樒の葉を乾燥させ、その上に聖号や経典を書いたものを粉にして、香料や膠などと混ぜ合わせて型に入れたもの

参考文献

芳賀登ほか監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター1993年6月、ISBN 978-4-8205-7128-5

パトリシア・フィスター 『近世の女性画家たち―美術とジェンダー』 思文閣出版1994年ISBN 4-7842-0860-7

千足伸行監修 『すぐわかる女性画家の魅力』 東京美術2007年4月、ISBN 978-4-8087-0809-2










内親王(飛鳥時代 - 江戸時代)
大宝律令施行(701年)以後で、内親王と公称した人物とする。
飛鳥時代

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