先史ヨーロッパ
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先史ヨーロッパ(せんしヨーロッパ)では、先史時代ヨーロッパについて、その概略を述べる。アルタミラ洞窟壁画ヴィレンドルフのヴィーナス
前期旧石器時代

ヨーロッパ地域に残る人類遺跡のうち最も古いものは、グルジア共和国に位置するドマニシ遺跡(Dmanisi)である。ドマニシ遺跡からはおよそ180万年前に遡る原人ホモ・ゲオルギクス)の人骨や、オルドワンの石器インダストリーに類似した打製石器が出土した。またブルガリアのコザルニカ(Козарника)洞窟からは、約140万年前のものとみられるヒトの活動痕跡が確認されている[1]。西ヨーロッパの初期人類遺跡としてはスペインのアタプエルカ(Atapuerca)にあるグラン=ドリナ(Gran Dolina)遺跡が著名であり、約90万年前の時期に推定される原人(Homo Antecessor)の上顎骨が発見されている[2]

前期旧石器時代の後半になると、ホモ=ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)の痕跡がヨーロッパだけではなく、アジア・アフリカの幅広い地域で分布するようになる。1908年にドイツ・ハイデルベルク近郊で初めて発見されたことからその名を付けられたこの原人は、ホモ属の進化系統からホモ=ネアンデルタレンシス(Homo neanderthalensis、ネアンデルタール人)が分岐する直前、もしくは分岐直後の現生人類(Homo Sapiens)寄りに位置すると考えられており、それまでの原人に比べると増大した脳容量や平坦な顔の作りをしていたとされている[3]
中期旧石器時代(ムスティエ期)ムスティエ文化の石器

中期旧石器時代になると、ホモ・ハイデルベルゲンシスと強い類縁関係を持つ旧人、ホモ=ネアンデルタレンシスがヨーロッパ各地に伝播し、おおよそ60万年前から4万年前の間にかけてムスティエ文化と呼ばれる旧石器文化を繁栄させる。ルヴァロワ技法による剥片石器を用い、死体の埋葬などの儀礼行為を行ったとされている。このネアンデルタール人と現生人類との関係については、近年まではほとんど交雑することがなかったとする説が一般的であった。しかし21世紀以降には化石人類のゲノム分析研究が進んだことによって、現代人(特にアフリカ系を除く人々)の持つ遺伝子情報のうち数%はネアンデルタール人に由来することが明らかとなった[4]。ムスティエ文化の主要な遺跡としては、フランス・ドルドーニュ県のムスティエ(Le Moustier)遺跡(標準遺跡)、クロアチアのクラピナ遺跡、イギリス・ノーフォーク州のLynford Quarryなどがある。
後期旧石器時代前半(オーリニャック期?グラヴェット期)オーリニャック文化の分布図

後期旧石器文化の主な担い手は、現生人類であるホモ=サピエンス=サピエンス(Homo sapiens sapiens)である。ヨーロッパにおいて、現生人類による考古学的文化のうち最も初期のものにオーリニャック文化(Aurignacian)がある。およそ42000?32000年前にヨーロッパ南部で栄え、剥片の多用(他のヨーロッパ後期旧石器文化では剥片石器の使用が少なく、石刃中心の組成を見せる)で知られる。またオーリニャック文化に後続する時期には、ロシア平原?クリミア山脈付近を中心として、尖頭器を多数出土することで知られるグラヴェット文化(Gravettian)が栄えた。(33000年前?24000年前)この時代には、オーリニャック文化・グラヴェット文化問わず女性像が多く製作されたこともまた特筆に値する。世界最古の女性像とされるホーレ=フェルス(Hohle-Fels)の例をはじめ、オーストリアのガルケンベルク(Galgenberg)、ロシア平原のコスチェンキ、ガガリーノ、アヴデーヴォ遺跡がそれぞれ女性像を出土したことで知られている[5]

30000年前のチェコや35000年前のベルギーの人骨からハプログループC1a2 (Y染色体)が検出されており[6]、このタイプがヨーロッパで最古層の集団と考えられる。
後期旧石器時代後半(マドレーヌ文化)

オーストリアのヴィレンドルフ(Willendorf)では、24000年?22000前のものと推定される著名なヴィーナス像(ヴィレンドルフのヴィーナス)が発見されている。

後期旧石器時代の末期には、フランスを中心とする西ヨーロッパ一帯にマドレーヌ文化(Madeleinian、Magdalenian)を担う人々が拡散した(17000年前~12000年前頃)。オーリニャック文化を母体としたと推定されているこの文化は、別名マグダレン文化とも呼ばれる。石器組成は石刃を主体としたほか、洞窟壁画などの精神活動の痕跡でもよく知られており、ラスコー(Lascaux)やアルタミラ(Altamira)などの著名な洞窟壁画が多数このオーリニャック=マドレーヌ文化期に描かれている。

この頃のヨーロッパはハプログループI (Y染色体)に属すクロマニョン人が分布していた[7]
新石器時代北から見たストーンヘンジ

西アジア地域における農耕の起源は、レヴァント地方の中石器文化であるナトゥフ文化(Natufian)から展開した一連の先土器新石器文化であるとされている。1970年代のシリア・アッサド湖におけるダム工事に伴う発掘調査によって、ナトゥフ文化からムギ農耕・ヤギ・ヒツジ牧畜を伴うPPNB期(先土器新石器文化B)までの文化系統の推移が明らかになった[8]。また、西アジアにおける土器の起源もこの地域であるとされている。

このレヴァントのムギ農耕がメソポタミア文明を経由して、おおよそ9000年前にレヴァントと類似した気候を有する地中海のバルカン半島に伝わり、ヨーロッパ各地に伝播することとなる。オーストラリアの考古学者ゴードン・チャイルドは、西アジアで成立した農耕新石器文化が各地に広まって技術・生業・社会に大きな変革をもたらしたことを「新石器革命(Neolithic Revolution)」と表現した。この「ヨーロッパにおける新石器革命の伝播ルート」を巡っては、今なお盛んな議論がなされている[9]


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