先収会社
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先収会社(せんしゅうがいしゃ)は明治7年(1874年)3月、野に下った井上馨益田孝らによって設立された商社政商。明治9年(1876年)に解散したが、益田らの組織・人員と事業は三井組によって引き継がれ、三井物産会社となった[1]。現在の三井グループも、先収会社が旧三井物産の前身としている[2]
概要

明治6年(1873年)、長州藩出身の明治の元勲の1人であり、大蔵省次官の大蔵大輔・井上馨は、財政縮減をめぐって司法卿江藤新平らと対立し、同年5月に政府を去る。この際、井上に才覚を認められて大蔵省の幹部になっていた益田孝も、井上と共に官職を辞した。2人は関係の深いの商人岡田平蔵らと共に、鉱山事業を主とし内外交易も行う会社として、翌明治7年(1874年)1月に岡田組を設立したが、設立間もなく岡田は銀座で変死し、井上と益田らは鉱山事業と岡田の出資分を岡田家に返し、残った商社機能をもって、同年3月に先収会社を発足させる。

先収会社は、米の売買および毛布・ラシャ・銃などを輸入し陸軍へ納入するほか、紙・蝋・茶・銅などを扱い、東京本店と大阪支店を事業の中心にし、横浜や神戸などにも店を出していた。政府を辞したとはいえ、長州閥のコネクションを持つ井上の政治力によって先収会社は多大な利益を得るが、井上の政界復帰に伴い、明治9年(1876年)に先収会社は解散する事になった。

およそ2年ほどの活動期間であったが、益田の才覚に大隈重信と三井組番頭三野村利左衛門が目を付け、益田らに先収会社の組織・社員ごと三井内の商社を作るように働きかけ、7月に三井物産が開業する。この先収会社の益田らを基に発足した三井物産は、三井組内の商事組織である三井組国産方と11月に合併し、やがて大財閥三井財閥の中核企業となっていくのである。益田はこの経緯で三井物産初代社長になり、後に三井財閥の中心人物となった[1][2][3][4][5]

この旧三井物産は昭和22年(1947年)に財閥解体の一環として解散するが、その後現在の三井物産株式会社として復活する[6]
歴史

明治4年(1871年)末、大久保利通木戸孝允伊藤博文らの岩倉使節団が2年近い欧米訪問の旅に出発した後、留守を預かった政府内で長州閥のリーダーとなった大蔵大輔の井上馨は、上司で大蔵省の長官である大蔵卿の大久保が不在の中で、実質的な大蔵省の長官として財政面を取り仕切り、財政縮減を主張し各省の予算を削ろうとした。しかし、抵抗勢力、特に司法卿江藤新平らとの対立は激しく、井上は明治6年(1873年)5月に政府を去る。この時、井上に才能を見出され、大蔵省で重責(造幣権頭、今の造幣局副長官)を担っていた旧幕臣の益田孝も井上と共に下野した[7]

下野した井上らは、つながりのある商人岡田平蔵[注釈 1]と同年秋に東京鉱山会社を設立する。鉱山事業に加えて、貿易事業も始めようと東京鉱山会社を発展させ、翌明治7年(1874年)1月に岡田組を設立する。岡田組の資本金は15万円[7]。この明治7年当時の1円の価値は換算する基準によって大きく異なるものの、人件費を基準にすると現代の2万円程度と換算する向きもある[9]。したがって明治7年の15万円は現在の30億円程度に相当すると思われる[注釈 2]。15万円のうち岡田は8万円、井上が3万円、エドワード・フィシャー商会が4万円を出資した[8]。岡田は岡田組設立以前からウォルシュ・ホール商会と貿易で取引があったが[11]、エドワード・フィシャー商会はウォルシュ・ホール商会の長崎支店長だったロバート・W・アーウィンがエドワード・フィシャーと共に横浜に設立した貿易商社である[12]。明治3年(1870年)に益田はウォルシュ・ホール商会に勤めており、その縁で岡田と、さらには井上と知遇を得ていたのである[13]

岡田組は正式な発足の明治7年1月1日以前の明治6年末に、既にエドワード・フィシャー商会を通じて米穀7000石を輸出するなどしているが、設立後わずか2週間の明治7年1月15日に岡田が急死する[8]。岡田は尾去沢銅山・阿仁鉱山・院内鉱山などの鉱山事業を推し進めていたが、それには井上の政治力を利用した不当・不明瞭な経緯があったようで、尾去沢銅山疑獄事件として非難を浴びている[14]。岡田の急死後、井上らは岡田家の出資金と鉱山事業はすべて岡田家に返し、岡田家と絶縁する[15][注釈 3]

かくして岡田組は解散するが、井上・益田らは岡田組から残った人員で新会社を興す。新会社名は最初は千秋社、ついで千歳社の名を経て先収会社とし明治7年3月1日に発足する[16]。井上が総裁となり[17]本店は最初東京築地に置き、後に銀座4丁目に移す。東京本店の頭取は益田である。東京と並ぶ拠点の大阪支店は岡田の店を離れて土佐堀に社屋を構え、大阪支店頭取は山口出身の吉富簡一が務める[16]。他に横浜、神戸に支店を置き[12]、大津にも小規模な支店があった[18]。社員数については全社員を網羅した名簿といったものは現存していなく、断片的な名簿類しか残ってはいないものの、名簿類やあるいは会計帳簿などに記された社員名をリストアップすると(子供と呼ばれていた丁稚や下男を含めて)名前を確認できるものが48名。


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