元老
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この項目では、戦前の日本の政治的地位について説明しています。その他の用法については「#呼称について」をご覧ください。

元老(げんろう)は、第二次世界大戦前の日本において天皇輔弼を行い、内閣総理大臣の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣である。明治初期に置かれた元老院と直接的な関係はない。
元老の権能

主権者たる天皇の諮問に答えて内閣総辞職の際の後継内閣総理大臣の奏薦、その他の重要国事に関与した[1]。元老の主要な権能としては後継首相の奏薦であるが、この会議には元老がすべて参加するとは限らず、元老たちの要請により、前首相や内大臣などが参加することもあった。天皇は元老が奏上した候補者については拒否した例はなく、大命降下は事実上元老の意見に基づくものとなっていた。また外交や内政の重大事項について協議して意見を述べることもあり、日英同盟締結の際には元老会議によって意見がまとめられ[2]日露戦争開戦時の御前会議にも参加している[3]。また個々の元老は宮中貴族院、政党や軍などに働きかける政治活動を行った。これらの行動は元老集団の合意に基づくものではなく、個人としての活動であった。

元老は内閣にとって正負両面の影響力を持っていた。原則的には成立した内閣の存続をはかり、交代に際しては円満であることを望んでいたが、第1次西園寺内閣倒閣の際には、倒閣に動いたことも指摘されている[4]
元老の資格

元老は公職ではなく、元老の権能、待遇、就任資格を明文化したものは存在しない。このような存在であるため、法的根拠がないという指摘が1900年ごろにも行われている[5]。このため大正期からは勅命または勅語によるものと認識されるようになった[6]永井和は天皇が「至尊匡輔の勅語」 を授けることが元老になる要件であるとしている[7]。しかし主立った元老は勅語を受ける以前から元老としての活動を行っており、受けた詔勅も共通したものではない。

元老となったと見なされることがある詔勅のうち、伊藤博文山縣有朋黒田清隆松方正義、そして桂太郎が受けた勅語は「特ニ大臣ノ礼ヲ以テシ茲ニ元勲優遇ノ意ヲ昭ニス」というものであり、西園寺公望が受けたものは総理大臣辞職の際の1912年(大正元年)12月22日に、「将来匡輔ニ須ツモノ多シ宜シク朕カ意ヲ体シテ克ク其力ヲ致シ賛襄スル所アルヘシ」[8]という勅語であるが、内容はまったく一致していない。同年8月13日に、山縣、井上馨、松方、大山巌、そして桂は「我が業を助くるべし」という勅語を受けており[9]これも元老と認めたものと解釈されることもある。

当時の読売新聞は「勅語中に「匡輔」「輔業」「賛襄」」というものがあるのが元老たる者を認めた勅語であるとしているが[10]、いわゆる「元勲優遇」の勅語にはそのような文言はない。読売新聞はこの記事において大隈重信が1916年(大正5年)10月9日に「匡輔」するよう勅語を受けたと記述しているが、過去の業績に対して述べられたもので他の元老と大隈の扱いは違うと解釈している。若槻礼次郎昭和天皇践祚の際に「朕カ志業ヲ輔翼弼成」するよう求められた勅語を受けたが[11]、元老と見なされることはない[12]。一方で、西郷従道はこの種の勅語を受けていないが、元老として扱われている。また松方、井上、大山が元老としての活動を行ったのは勅語を受ける以前からである。このため伊藤之雄は、その人物を元老たらしめたのは、明治天皇や他の元老による承認によるものだとしている[13]

待遇としては、皇室儀制令(大正15年[1926年]皇室令第7号)第29条において、「元勲優遇ノ為大臣ノ礼遇ヲ賜ハリタル者」として宮中席次において第一階第四の席次を受けるというものがある[注釈 1]。ただし、この「元勲優遇」という勅語を受けた者は公布時点ですでに全員死亡している[注釈 2]
沿革
内閣制度発足以前

憲法制定以前の明治政府においては藩閥の有力者や岩倉具視などのいわゆる「元勲」たちによって政治や人事は行われていた。大臣・参議制度が伊藤博文によって主導されるようになると、このころの参議の過半数がのちに元老となっている[注釈 3]
元老制度の形成

内閣制度が発足し、第1次伊藤内閣が成立したが、大臣のうち6人が後の元老となっている[注釈 4]。伊藤内閣の後の黒田清隆内閣第1次山縣内閣はそれぞれ前首相の推薦によって成立した[14]

1889年(明治22年)11月21日、伊藤博文黒田清隆に対し「大臣の礼によって元勲優遇の意を表す」という詔勅が下された[15]。これは通常「元勲優遇の詔勅」と呼ばれ、大正期からは元老の法的根拠とされていたが、伊藤 2016はこの詔勅により二人が元老となったわけではないと指摘している[15]。伊藤、山縣はのちに同趣旨の詔勅を4回受け、松方は3回受けているが[15]、この詔勅を受けていない段階でも井上馨松方正義は後継首相の諮問を受けている[16]。この詔勅により伊藤やより若い世代の松方などを「元勲」と呼ぶ動きが広まった[17]

1891年(明治24年)当初の責任を果たした山縣内閣の山縣は辞任を決意、後継に伊藤を推薦したが伊藤は固辞。伊藤は松方正義と西郷従道を推薦した。
第2次伊藤内閣の成立

1891年(明治24年)5月 第1次松方内閣が成立。1892年 第1次松方内閣が行き詰まりをみせると、6月29日、元老会議が開かれ伊藤・黒田・山縣・松方が出席、井上馨は山口県に帰郷していたため参加できなかった[18]。この会議では第2次伊藤内閣の成立が事実上決まり、「元勲会議」によって後継首相が決まる先例となった[19]土方久元宮内大臣が伊藤に対して「政府内にいなくても元勲の身で天皇の諮問を受け、奉答することはけっして不当ではない」という書簡を出しているように、こうした元勲たちが国政への助言や指導を行うべきであるという認識が強まった[20]。7月30日に松方が辞表を提出すると、明治天皇は伊藤、山縣、黒田に善後処置を諮り、そして2日後には井上馨に対して後継首相の意向を尋ねた[21]。伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして山田顕義大山巌を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された[21]
第2次松方内閣の成立

1895年(明治28年)に伊藤が辞職の意向をもち、後継首相に松方を推薦したが、明治天皇は辞表を却下している[22]。1896年(明治29年)に再び伊藤が辞表を提出すると、伊藤が後継を指定しなかったこともあり、天皇は山縣・黒田・井上、そして松方に諮問する意向を持っていた。参内した黒田と松方に対し、天皇は山縣を首相としてはどうかと諮った。しかし山縣が病気を理由に辞退したため、第2次松方内閣が成立した[23]。このころ清浦奎吾白根専一は天皇が「元老を召す」という書簡を出しており、東京日日新聞[注釈 5]でも9月1日に「黒田伯をはじめ元老諸公」が相談をすると報じており、9月3日には「所謂元老会議」という記事を掲載し、大阪朝日新聞も4人の「元老」と記述している[24]


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