元老院_(日本)
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元老院

種類
種類一院制
沿革
設立明治8年(1875年4月25日
廃止明治23年(1890年10月20日[1]
前身左院
後継帝国議会
定数91(廃止時)
議事堂

明治政府東京府
元老院議事堂(1875年-1890年)

元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。
概説広重による太政官所、駅逓寮、元老院議事堂。元老院議官の集合写真(1879年)。最前列中央は初代議長有栖川宮熾仁親王

1875年(明治8年)に大久保利通伊藤博文木戸孝允板垣退助らの大阪会議での合意に基づき、続いて出された立憲政体の詔書によって1875年4月25日、左院にかわり設置された。

当初は議長と副議長が各1名置かれ、その他の定員は無制限であり、年俸は議長6000円、副議長4800円、議官が4200円、その他大書記官、権大書記官、各小書記官、各書記生等に年俸が掛かった[2]。報酬は明治通宝等で支払われたが、議長の年俸6000円は、現代は約1.2億円にあたる[3]

程なく財政上の都合から同年11月25日に職制が改正され、正副議長各1名とこれを補佐する幹事2名(1886年廃止)、その他の議官28名の計32名が定数とされた。

議長は左大臣の兼務とされたが実際には一度もその事例は無く、設置当初は議長は空席で副議長の後藤象二郎が議長の職務を代行した。1875年11月の改正に伴い、これを補佐するために幹事が新設されて陸奥宗光河野敏鎌が幹事となった。熾仁親王が議長に就任すると、岩倉具視の要請で1876年(明治9年)9月8日に国憲(憲法)草案起草の勅命が元老院に対して出された。これに基づいて2度の「国憲草案」(1876年10月及び1878年10月)が作成されたが、正院側からは酷評されて採用されなかった。また、このころの元老院の議論は低調で1878年(明治11年)1月20日付の「輿論雑誌」には、元老院でまともに議論をしているのは両幹事(陸奥・河野)と中島信行細川潤次郎の4名だけと揶揄されている。しかも追い討ちをかけるように6月には幹事の陸奥宗光が立志社の獄の容疑者とされて元老院を追放されたのを機に、正院側から元老院の権力を抑制しようとする動きが現れ、以後正院の干渉を受けるようになった。1880年(明治13年)には会計検査院が創設されたが、議官などの定数は事実上無視され知事や政府高官経験者が次の役職を得るまでの待機ポストの色合いを強める。廃止時には定員が91名にまで増員され、その多くが元老院廃止後にそのまま貴族院議員に転身する。

1890年(明治23年)10月20日帝国議会開設のため廃止された[1]。元議官は錦鶏間祗候という名誉職を与えられた。明治天皇は廃止に際して以下の勅語を与えた[1]。.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}元老院ノ創設而來茲ニ十有餘年克ク朕󠄂カ立法ノ業ヲ贊襄セリ 朕󠄂今帝?國議會ヲ開會セシムルニ臨ミ其ノ閉院ヲ命シ?セテ其ノ勞績ヲ表明ス
評価

制度的な制約などから主体的・独自的な機能や役割を充分に果たすことは出来なかったという評価が多い。しかし、1876年に国憲起草の詔勅が下され、立法に係わる機関として1890年に廃止されるまで法令審査に努めたこと、明治政府において公論尊重の方針が一貫して存在していたことの証明として元老院は評価される[4]
主な人事
議長

代肖像氏名在任期間出身
1
有栖川宮熾仁親王1876年5月18日 - 1880年2月28日皇族


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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