元禄丁銀
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元禄丁銀

元禄丁銀(げんろくちょうぎん)とは、元禄8年9月15日(1695年10月22日)から鋳造開始、同9月27日(1695年11月3日)から通用開始された丁銀慶長丁銀に次ぐ江戸時代2番目の秤量貨幣である。元禄丁銀および元禄豆板銀を総称して元禄銀(げんろくぎん)あるいは元字銀(げんじぎん/げんのじぎん)と呼ぶ。
概要

表面には「(大黒像)、常是」および「常是、寳」の文字に加えて両端に計二箇所の「元」文字の極印が打たれている。また、祝儀用とされる12面の大黒像極印が打たれた十二面大黒丁銀も存在する[1]
略史

慶長丁銀の発行された江戸時代初期は、石見銀山を始めとして、生野銀山蒲生銀山多田銀山院内銀山などの産銀が最盛期を迎えていた。佐渡金山も、量的には銀山と呼ぶべき多量の銀を産した。この時代の国内産銀量は世界一、二位を争うものであり、生糸高麗人参などの貿易対価の支払いのため、多量の銀が中国ポルトガルオランダおよび朝鮮などに輸出された[2][3]新井白石らの推定によれば、慶長6年(1601年)から宝永5年(1708年)までに国外に流出した丁銀および灰吹銀は1,122,687にも及んだという[注釈 1][4][5]。このような多量の銀の海外流出が続いた上に、寛永年間を過ぎると産銀に陰りが見え始めた。さらに人口増加に加え、大平の世が続くなか幕府は将軍の代替わりや日光参拝などの行事が増々華美となり、加えて生類憐れみの令による犬小屋建設など、出費が増加し、結果、経済が発展し全国的市場圏が形成され、通貨不足が顕著になってきた[6][7]大坂においては信用手形の創出と発行増大、寛文-元禄年間には諸藩の銀札の新発行と増大の傾向が見られた[8]

このような背景の中、江戸幕府の財政支出が増加し、また金銀鋳造減少による収入減の憂目に逢っていた金座および銀座からの働きかけもあり、勘定吟味役荻原重秀により貨幣の金銀含有量を下げ、通貨量を増大させる貨幣吹替えが建議され遂行された。元禄8年8月7日(1695年9月14日)に金銀吹替えの触書が公布され、滞りなく慶長銀と等価に通用するよう通達した。この吹替えでは、世上通用の慶長銀を、旧銀(慶長銀)に対し2%の増歩を付けて新銀(元禄銀)と引換えることにより回収し、この地金に差銅して新銀の鋳造に供したが、旧銀の回収が思わしくなかったにも拘らず元禄11年12月(1699年)以降は1.5%に引き下げられた[9]

元禄8年8月7日(1695年9月14日)に出された金銀改鋳に関する触書は以下の通りであった[10][11]

一、金銀極印古く成候に付、可ニ吹直一旨被レ仰ニ出之一、且又近年山より出候金銀も多無レ之、世間の金銀も次第に減じ可レ申に付、金銀の位を直し、世間の金銀多出来候ため被ニ仰付一候事。

一、金銀吹直し候に付、世間人々所持の金銀、公儀へ御取上被レ成候にては無レ之候。公儀の金銀、先吹直し候上にて世間へ可レ出レ之候、至ニ其時一可ニ申渡一候事。以上

元禄八年八月七日


一、今度金銀吹直し被ニ仰付一、吹直り候金銀、段々世間へ可ニ相渡一之間、在来金銀と同事に相心得、古金銀と入交、遣方・請取・渡・両替共に無レ滞用ひ可レ申、上納金銀も右可為ニ同事一

(中略)

元禄八年亥九月日

この吹替えは、貨幣鋳造の改鋳利益に対する運上を確実に取集し、また品位低下に関する機密保持のため統制を強化する目的で、元禄8年9月15日(1695年10月22日)から江戸本郷霊雲寺近くの大根畑に建てられた吹所に金座人および銀座人を集結させて行われた。本郷における貨幣鋳造は吹所の火災により元禄11年11月(1698年)に終了し、金座人および銀座人は京橋および京都両替町に復帰した[12]

慶長期は貨幣鋳造用の地金は主に新産銀により供給されたが、17世紀後半から衰退し、特に元禄期以降の産銀は著しく減少したため、旧貨幣の回収による吹替えが主流となった。


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