元祐皇后
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孟皇后
北宋の皇后
元祐皇后孟氏
在位元祐7年5月16日 - 紹聖3年9月29日
1092年6月23日 - 1096年10月17日

別称元祐太后、隆祐太后
昭慈献烈皇后、昭慈聖献皇后
出生熙寧5年12月11日
1073年1月21日
?州
死去紹興元年4月14日[1]
1131年5月12日
越州
配偶者哲宗
子女福慶公主(洵美帝姫)
父親孟在
母親王氏
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元祐皇后(げんゆうこうごう)は、北宋哲宗の廃后。南宋高宗により皇太后とされた。姓は孟氏。廃位後の法名は沖真。元祐太后、隆祐太后とも呼ばれるが、これらは諡号でなく生前の称号であり、元祐は哲宗期の元号である。
生涯

?州の人。従八品閤門祗候の孟在と王氏の娘。宣仁太后らによって多くの名家の娘の中から選ばれて、元祐7年(1092年)5月16日、20歳で当時17歳の哲宗の皇后となった。哲宗は?、劉氏(昭懐皇后)を寵愛し、孟氏は劉氏としばしば諍いを起こした。

紹聖3年(1096年)に掖庭の獄が起こり、9月29日に孟氏は呪詛、媚薬使用、病原投与の罪で皇后を廃され、瑤華宮に移されて道士にさせられた。法号は「華陽教主」「玉清静妙仙師」[2]

元符3年(1100年)、哲宗が崩ずると、欽聖皇后によって皇宮に召され、皇后に復して元祐皇后を称した。

崇寧元年(1102年)、徽宗によって再び廃され、瑤華宮に移された。新しい法号は「希微元通知和妙静仙師」。しかし瑤華宮で火事が起こり、孟氏は延寧宮に移った。その後、延寧宮も焼失して孟氏は実家に帰った。

靖康の変の際、廃后で実家にいたことが幸いし、に捕らえられ連行されるのを免れた。金は北宋の宰相であった張邦昌を傀儡として「大楚皇帝」に擁立し、北宋の旧領を間接統治しようとした。しかし金軍が撤収すると、張邦昌は即座に帝位を放棄し、孟氏を元祐皇后[3]として尊奉し、垂簾聴政させた。孟氏は手ずから書して、開封を脱出していた康王趙構(高宗)が立ち、宋の皇統を継いだことを内外に告げた。

南宋の建炎元年(1127年)、孟氏は元祐太后を号した。さらに祖父の孟元の名前を避諱されて、隆祐太后と改号した。 紹興元年(1131年)4月、越州の行宮で崩じた。昭慈献烈皇后とされ、のち昭慈聖献皇后と改められた。
子女

福慶公主(洵美帝姫)

脚注^宋史』巻26, 高宗紀三 紹興元年四月庚辰条による。
^ 『宋史』巻18, 哲宗紀二 紹聖三年九月乙卯条による。
^ 張邦昌は「」の帝位にあった4月5日、実家にあった孟氏を宋太后に封じた。4月10日、金軍が遠のくと、張邦昌は即座に帝位と「楚」の国号を放棄し、孟氏を皇宮に迎えて宋の元祐皇后として垂簾聴政させた。

伝記資料

『続資治通鑑長編』

『宋会要輯稿』

『廃皇后孟氏詔』

『復元祐皇后制』

『再廃元祐皇后詔』

『孟沖真賜希微元通知和妙静仙師詔』

『張邦昌請元祐皇后垂簾聴政手書』

関連項目

掖庭の獄










の皇后
北宋

昭憲杜太后* / 孝恵賀皇后* / 孝明王皇后 / 孝章宋皇后 / 淑徳尹皇后* / 懿徳符皇后* / 明徳李皇后 / 元徳李皇后* / 章懐潘皇后* / 章穆郭皇后 / 章献劉皇后 / 章懿李太后* / 章恵楊太后* / 仁宗郭皇后 / 慈聖曹皇后 / 温成張皇后* / 仁宗張皇后* / 宣仁高皇后 / 欽聖向皇后 / 欽成朱皇后* / 欽慈陳太后* / 昭慈孟皇后 / 昭懐劉皇后 / 顕恭王皇后 / 顕粛鄭皇后 / 明達劉皇后* / 明節劉皇后* / 顕仁韋皇后* / 仁懐朱皇后
南宋

憲節?皇后 / 憲聖呉皇后 / 成穆郭皇后* / 成恭夏皇后 / 成粛謝皇后 / 慈懿李皇后 / 恭淑韓皇后 / 恭聖楊皇后 / 寿和謝皇后 / 度宗全皇后
*:追封皇后


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