出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年5月)
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆
をお願いします。(2021年5月)元敬王后
????
朝鮮王妃
彼女の陵墓である獻仁陵
在位建文3年1月10日 - 永楽16年8月10日
(1401年1月24日 - 1418年9月9日)
別称号静妃
別称厚徳王大妃、元敬王太后[1]
出生至正25年7月11日
(1365年7月29日)
高麗、開京、鉄洞
死去永楽18年7月10日
(1420年8月18日)
朝鮮、漢城府、寿康宮別殿
埋葬献陵
配偶者太宗
子女譲寧大君
孝寧大君
世宗
誠寧大君
氏族驪興閔氏
父親驪興府院君閔霽
母親三韓国大夫人宋氏
テンプレートを表示
元敬王后閔氏(げんけいおうこう・びんし/ウォンギョンワンフ・ミンシ、1365年7月29日 - 1420年8月18日)は、李氏朝鮮第3代王・太宗の正妃。本貫は驪興閔氏。 閔氏は高麗末期、閔霽(びん・せい)の娘として開京(現・開城)で生まれ、実家は儒教の名門であった。17歳のころ、将軍でのちに朝鮮の初代王となる李成桂の五男・芳遠と結婚、当初は夫婦仲が良好で4男4女を儲けた。彼女は夫とともに朝鮮建国に貢献し、政敵に狙われていた芳遠を暗殺の危機から救い、政権奪還に成功させた。 1400年、芳遠は第3代王・太宗に即位し、閔氏は王后に就いた。しかしそれを引き換えに彼女の不幸な後半生の始まりであった。太宗は後宮を多数抱えたことで夫婦仲が悪化、太宗による外戚勢力一掃で弟たち四兄弟が粛清され、世子(のちの譲寧大君)の不品行に悩まされ、さらに自分の廃位の危機に立たされた。しかし太宗は彼女の功績を顧み、尊厳を守った。だが不幸は続き、溺愛していた四男・誠寧大君が天然痘で14歳で夭折し、その死を悲しんだ。ただ王后にとっての幸福は三男・忠寧大君が第4代・世宗として即位したことである。1418年に太宗の譲位に伴って王大妃となったのち、1420年、薨去。
生涯
出典
『王妃たちの朝鮮王朝』 尹貞蘭 著、金容権 訳 日本評論社 2010年
『朝鮮王宮 王妃たちの運命』 康煕奉 著 実業之日本社 2011年
登場作品
『朝鮮王朝500年』 1983年、MBC(演・キム・ヨンラン)
『龍の涙』 1996年-1998年、KBS(演・チェ・ミョンギル)