元帝_(南朝梁)
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元帝 蕭繹

第4代皇帝

王朝梁
在位期間承聖元年11月12日 - 承聖3年12月20日
552年12月13日 - 555年1月27日
都城江陵
姓・諱蕭繹
字世誠
小字七符
諡号孝元皇帝
廟号世祖
生年天監7年8月6日
508年9月16日
没年承聖3年12月19日
555年1月27日
武帝
阮修容
后妃ない
陵墓江陵
年号承聖 : 552年 - 554年
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元帝(げんてい)は、南朝梁の第4代皇帝。姓は蕭(しょう)、名は繹(えき)。南朝梁の武帝蕭衍の七男。
生涯
出生と湘東王時代

天監7年(508年)8月、蕭繹は武帝と阮令?のあいだの子として生まれた。天監13年(514年)7月、湘東郡王に封じられた。寧遠将軍・会稽郡太守を初任とし、軽車将軍の号を受けた。

後に蕭繹は入朝して侍中・宣威将軍・丹陽尹となった。普通7年(526年)10月、西中郎将・荊州刺史として江陵に出向した。中大通4年(532年)9月、平西将軍の号を受けた。大同元年(535年)12月、安西将軍の号に進んだ。大同3年(537年)閏月、鎮西将軍の号に進んだ。大同5年(539年)7月、入朝して安右将軍・護軍将軍となり、領石頭戍事を兼ねた。大同6年(540年)12月、鎮南将軍・江州刺史として尋陽に出向した。大同8年(542年)2月、安成郡の劉敬躬の反乱に対して、蕭繹は曹子郢を派遣して対応させた。3月、反乱を鎮圧し、劉敬躬を都の建康に送った。太清元年(547年)1月、蕭繹はまた鎮西将軍・荊州刺史となり、再び江陵に下った。
侯景の乱と湘東王承制「侯景の乱」を参照

太清3年(549年)3月、東魏から亡命してきた侯景反乱を起こし、建康が陥落し、武帝は抑留された。4月、太子舎人の蕭韶(蕭懿の子の蕭淵猷の子)が武帝の密詔を建康から江陵に届けたとされる。湘東王蕭繹はこれにより司徒の位を受け、承制することとなった。承制とは皇帝を代行することを意味する。5月に武帝が建康で死去し、侯景により簡文帝が擁立されたが、蕭繹はその即位を認めず、江陵で独自の政権を運営した。このため湘州に拠る河東王蕭誉益州に拠る武陵王蕭紀など、他の皇族たちとも対立することとなった。6月、蕭繹は子の蕭方等を湘州に派遣して、河東王蕭誉を攻撃したが、蕭方等は蕭誉に敗れて横死した。7月、蕭方等に代えて鮑泉を派遣したが、やはり敗れたため、王僧弁を湘州に派遣した。

翌太清4年/大宝元年(550年)5月、王僧弁の攻撃により湘州を陥落させ、河東王蕭誉を斬った。さかのぼって同年9月、蕭繹の甥(蕭誉の弟)で襄陽に拠る岳陽王蕭?が江陵を攻撃した。蕭繹は蕭?の攻撃を撃退したが、蕭?は西魏を頼り、蕭繹にとっての敵対勢力であり続けた。侯景に対しては徐文盛らを東下させたが、太清5年/大宝2年(551年)4月に侯景の部将の宋子仙郢州を陥落させたため、不利に陥るかと思われた。しかし、5月に侯景が王僧弁の守る巴陵を攻撃して敗れたあたりから、形勢が変わりはじめた。6月には王僧弁が郢州を奪回。8月には?城を落とした。翌太清6年/太始2年(552年)3月に王僧弁や陳霸先らが建康を陥落させ、逃亡した侯景は部下に殺害されて、侯景の乱は終息した。

同年(承聖元年)11月、蕭繹は江陵で皇帝に即位した。即位後も旧都である建康に入らず、江陵に留まり続けた。
皇帝即位後

さかのぼって太清6年(552年)4月、蜀に拠る武陵王蕭紀が皇帝を称した。8月、蕭紀が東征を開始したため、元帝は陸法和らを派遣して防戦にあたらせるいっぽう、西魏に要請して蕭紀の本領である蜀に進入して後背を脅かすように求めた。承聖2年(553年)、西魏の実権を握る宇文泰はこれに応じ、尉遅迥を派遣して関中と蜀を結ぶ要所の潼州と蕭紀の本拠地である成都を占領した。元帝は蕭紀を打倒することには成功したものの、蜀を西魏に奪われることとなってしまった。

元帝は蜀を西魏に与えたことを後悔し、西魏に対して国境の原状回復を求め、一方で北斉に働きかけて西魏を攻撃させようとした。西魏は元帝の裏切りに反発するとともに、早くから西魏に臣従の姿勢をみせてきた蕭?を庇護する名目から、承聖3年(554年)に蕭?を梁の正統として擁立し、于謹を総大将として江陵に攻め込んだ。

元帝は王琳や王僧弁らに救援を求めたが、西魏軍に江陵を攻め落とされ、捕らえられた。同年12月に蕭?によって土嚢を積まれて圧殺された。西魏は蕭?を梁の皇帝として即位させた(後梁の宣帝)。

一方、建康にいた王僧弁は、元帝の九男の蕭方智(敬帝)を皇帝に擁立した。
学問

歴代中国皇帝の中でも学問を愛した皇帝であった。幼少時に病気で片目を失明したが、書物を好み、自ら多くの著作を残し、蔵書は10数万巻に及んだという。また老荘の書を好んだ元帝は、西魏の軍が江陵に押し寄せる中も、『老子』の講義を行い、群臣たちは武装したままそれを聴講した。元帝が集めた蔵書は、江陵が陥落する直前、「書、万巻を読めども、なほ今日あり。」(「讀書萬巻,猶有今日。」)と、自身の手によって全て焼き払われた。

現存する編著に、諸子百家に倣った『金樓子』がある。
職貢図詳細は「職貢図」を参照

荊州刺史を務めていた時代に職貢図を作成されたと伝えられる。蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や都建康で調査し、また裴子野の方国使図を参考にしたといわれる[1]
妻子【蘭陵蕭氏(中国語版)系図】(編集)

                  蕭整

                                       
                                         
 南朝斉        蕭雋          蕭?       南朝梁


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